『反省(内観)』 目次
一、序文 ⇒本文
二、各文献よりの抜書 (省略)
三、反省の方法 ⇒本文
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反省(内観)
一、序文
近時新聞、ラヂオを通じて猛省を促すとか、再省せよ、内省すべき時だとか、深く反省せよ皇國興廃の岐路なれば軍官民總て自らを省みよ。等強く叫ばれて居るが、眞にその反省をやって居る人が何人ありませうか。
反省とはいかなるものか。について過去及現代心讀の書より要文を抜取りまとめました。
勿論此の書は、教へる為にではなく又與へるの書でもない。私自身導かれつヽある御言葉の集まりで御座います。若し此の御言葉が御入信の御縁とならば嬉しい有難い極みで御座います。 合掌
昭和二十年二月十一日 紀元節の日
信保書院にて 伊 信 識 す
二、各文献よりの抜書 (省略)
三、反省の方法
頭で考へず、凡夫の智慧を使はず、自分の実際の姿をアリのマヽに視る事である。一室にとぢこもって、たとへ十日間でも七歳八歳の物心づいた幼い頃から現在までの自己が行った思った事を、又現在の行為を振返り、繰返し繰返し自分を調べる事である。
ハヽン成程と合點したのが信ではなく、倦まずたゆまず善い事が多かったか、悪い仕事が多かったかを調べて行く。十歳位の時、十一歳位の頃、十二歳位の時代と、親に對して友人に對して、兄弟に對して又は先生に對して、子に對して、どうであったかを内観するのである。
「そんな事をすれば憂鬱になって神經病になりませんか」と問ふ人もありますが、尊い光に包まれ眞實の聲(聲なき聲)を聞き、如来の直説を承る事に依って神經衰弱になる筈がありません。
反省すれば必ず慚愧が伴ひ、慚愧の後には必ず感謝報恩の念が湧き出て來ます。
懺悔の伴はない感謝では眞実の報恩になりません。自らの不忠に氣づき、不孝を知る深さだけ眞の忠孝が行へるのであり、せめてはとの思ひのみが眞実の忠義も孝行も湧き出るものと信じます。
現在、大阪府布施市に眞宗諦観庵と言ふ庵室があり駒谷諦信師がその徳を慕ふ人々と共に、前恩師西光院西本諦観師の御遺影を守り、清らかな一しづくの法流が今も尚釈尊以来一器の水を一器にうつし脈々として眞実の佛法が流れて居ります。
詳しくは其処へ行って実行さして頂くとよいと思ひます。
南無阿彌陀佛 々々々々々々 合掌
わが心鏡にかけて見るなれば
さぞや姿のみにくかるらん
受け難き人の姿に浮かび來て
こりずや誰も又しづむべき