奈良県大和郡山市高田口町9-2

『信前信後』

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はしがき
 先般大恩ある岡山榮次郎様に先立たれ、去年七月二十二日願正寺様にも死なれ、今年七月三十日恩師駒谷諦信様も逝かれ、續いて八月十三日先輩井上安之様も永眠されました。
 その上古今未曾有の大戰たる大波に襲はれ、愈々益々浮世の浮世たるはかなさをしみじみ味合はして頂くと共に現に今、生かされて居る事実の不思議さに御佛様の御苦労を感謝せずには居られません。
 此の幸福な惠みを知らして頂いた深い深い求道からの御因縁を、皆様の御苦労を、アリのママに告白し御恩を感謝の思い出として綴ってみました。
 御師匠様を始め、今は亡き先徳方も、噫々御淨土から總てを見て御座る。私の不法解怠を嘆じて居らるヽことヽ思ひつヽ    合掌
 之を縁として駄馬に鞭って下さる事を望みます。
                               南無阿彌陀佛
    昭和二十年十二月十六日
                     於信保書院     伊信識す

信前
 昭和拾壱年十一月四日、奈良縣五條町 福本義乗様を伺ひ
「最近布施の何とか言ふ教へを信仰して居られるそうだが如何なる方法、組織であらうか」と研究的な又は好奇心的な思ひもあって訪れました。
 当時二十一歳の青年乍既に一流の安心に住して居る積りで人々に信心を獲得して頂く様奨めて歩いて居った私は、元より教を乞ふ気持ではなく、視察的な感じで御座いました。
 福本家は代々佛法に御熱心な家で、特に先代の主人は永い間眞実の大法を求めて御苦労され、当代の主人も謹厳実直で永年町会議員にも選ばれ指折りの資産家、素封家とて先づ社会的には私もその御人格に信じて居りました。それが私をして、此の大法に縁付けられた最大の原因かとも考へられます。

 扨て、勤行も済み夕飯も終って火鉢を圍み、先づ福本様から「お正信偈様の中に難中之難無過斯とありますがどう味合はれますか?」と問はれ、同伴の淨光寺僧侶米澤友重様が
「名号の尊稱でせうな」と僧侶らしく御答へになりました。傍で聞いて居る私はそんな事柄より「布施はどんな教を、どうした方法で聞かすんですか? 學生の武道合宿練習の様な形式ですか、都合に依っては私も一度講習を受け度いが」と福本様に尋ねました。がその問に對する答より私に向直って「念佛は無我にて候、と蓮師の御一代聞書にありますがこの味が喰へますか、無我になった覺がありますか」
 此の問には私も少し面食らひました。従来は講習会や説教で聴いて覚えて知った事が信心であり、疑はない事が安心の様に合点して居た私に、味合ひとか、体験とか、尋ねられたのでは、サッパリ方角が違ふので靜かに承って居ると更にお領解文を引用して、「もろもろの雑行雑修自力の心とはどんな心かわかりませうか? 我等が今度の一大事の後生とあるが、一大事の後生と感じた事がありますか?火は熱いと話に聞いて覺えて居るのと、身に觸れて熱いのと違いますよ、御助け候へとたのみ申て候、とあるがたのんだ覺えがありますか」とたたみつけられて、米澤様がどんなに返事なされようとも私自身がこれはこれはと思直して居るとヒョッと昔読んだ石丸悟平様の著書にこんな一節がありましたがと前置して「『現在の淨土眞宗は既に人を救ふ宗教ではない。親鸞聖人の山を降りられた意識を体得した者のみが救はれる』とありましたが、布施の教へはつまり後生を一大事だと思はしめる團体ですか」と反問しました。先方様の「マァそうでせうね」との御答へに少し得意げとなり私も是非一度御伺したいのですがと言へば、「吉本様は未だ眞剣な後生大事になって居りませんから御師匠様宅へ行かれても玄関払ひになりませうから、先づ大阪市住吉区の井上安之様を訪れて御師匠様へは後になさいと略地図も書いて下さいました。
 奥様の御言葉では「後生難儀であろうが無かろうが、兎に角行って見なされ、皆様の御念力で何とかして下さいますから」と励まされた。翌朝一先づ郡山へ帰りました。

 長野縣の精華書道院の理事となり、書道と佛教と題して書道雑誌に長い論文を送って居た私の、“何時の間にやら安心”と言ふ安心が少しぐらついて来ました。
 帰ってすぐ母に、総てを打明け「今迄は病気だとも気づかず、藥も呑まず養生もせず、治った積りで藥の効能や全快者の幸福を聞覚え讀わけて知った事が信心と思ひ込み、人に話せる事に依り信者顔しては居りましたが、眞実信心とはそんな話の世界ではなく、体験、実験、身に觸れて行ひ、実際に後生大事とならなければいけません。私は誰が何と言って止めやうとも此の無我の境地を体得する為暫らく暇を下さい。行って来ます」と頼みました。母は「臼引きが終ってからでないとお父さんにしかられますぜ」と不安そうに仰言ってましたが、その夜、淨光寺へ行って話して居ると米本留次郎様(修徳会員で私より五才年長にして眞面目な青年)は、「吉本様、若し善い處であり、有難い教であれば後で知らして下さいよ、私も行きますから」との事でした。

 十一月七日、書家であり宗教家気取りの私は羽織袴に白足袋で井上様へ行きました。
 御主人様が御不在で夕方頃迄は奥様に往生要集の本を貸して頂いたり「何の目的で生きて居るか、生れて来たかをよく考へて下さい。晩になると主人が戻って来ます」との事でした。思返せば、妹が四才の可愛い盛りに此の世を去ったのは私が九才の頃でした。その後母と共に正信偈様を覺え、十七才よりは淨光寺へ出入りして信者気取りで暮して居た私は二十一才の今日迄「何の目的で生きて居るか、生れて来たか?」と問われた事は一回もなかった。之程重大な問題を知らぬママで宗教を語るとは全く空恐しい事である。
「自分の魂が死後何處へ行くか」と奥様に問はれて返事も出来ず困ったものでした。
 夕方、主人安之様が御帰りになり一時頃迄御育てを受けました。翌朝雨の中、奈良縣磯城郡の岡山榮次郎様へ振向けられ御法話を承りました。夕方ドヤドヤと六七人もの御方が来て下さって、別室から漏れる私語に「教員だっか」
「いヽえ教員ではないが仲々の辨当持ちや」
「骨が折れまんな、辨当(宗教學問か偽信心の事)の多い人は」
「あんたも一言何か言ってあげて下さい」とかの上、一人一人私の前へ来て
「一大事の後生だっせ、大事の上に一がついて居りますからな、後生難儀で来られたのか聴聞難儀で来なさったんですか、聴聞難儀でしたらもう帰りなさい。後生が気になって来られたのでしたら相談に乗れますがね」と言って下さる御方もあり、又の一人清川清吉様は「たとへ大千世界にみてらん火をも過ぎ行きて、佛の御名を聞く人は、永く不退にかなふなり、とありまして火原をかきわけてでも行く熱心がなけれぱ信心は頂かれませんで」と御親切に教へて下さった。私は誰から何と言はれても、唯聞かして頂くのみでハイハイとうなづいては居るものの、又内心では、「之は言はん講、言はず講と言ふ團体と違ふのかいな」と此の夏、高田の御坊で司教伊藤義賢先生の講習会に「類似宗教團について」との話を思出したりしては、又福本様ともあらう御方が邪教に抱込まれる筈もなし、あれだけの資産を維持し暖かい家庭も皆信仰の徳だらう、と自問自答内心で考へて居りました。
 十一月八日の晩である。何時の間に連絡されたものか、福本様が別室まで来られて、岡山様にヒソヒソと「三四日前に私宅へ来られた姿と態度が変ってますな、これはヒョッとしたら物になるかも知れませんな」との話に私は内心で「そうであってくれれば有難いが、信心を頂いて帰れば母を喜ばし、必ず母を手引きするものを」と考へて居りました。
 雨後のぬかるみを福本様、岡山様につれられて高田町の森川己之治郎様宅へ来ました。兄嫁の実家であり十年も前から遊びに来て居た家なので求道の旅先たるの気分は起こらなかったが、その奥様は福本様の妹にあたり此の夏は眞実信者とも知らず何か質問して見なさい」と偉そうに教へ手に廻り「“因果の親”とはどんな親ですか」と問はれ佛教辞典で調べて答へた等を思出し心から流れる涙を押へつヽ謝りました。
 「眞実の体験ある御方とも知らず、済みませんでした、私の信心は砂上楼閣でした。今後は命を懸けて求めますから宜敷御導き下さいませ」と両手をついて泣いて詑入り奥座敷で一夜を明かし翌九日の夕方布施から御師匠様が来て下さいました。初めて奥座敷で遇った時、冷たい顔をして、
「どんな気持で来られましたか」
「無我の境地を体得したい為御伺しました」
「後生は一大事と思ひませんか」
「表面の心が一大事と感じても奥の内心はどうもなってくれません」
「それでは御帰リになって一大事の後生と感じてから来なさい。偽札を渡しては三世通じる信心が此の世だけの事では困りませうからね、御飯も土を喰って居る様になり夜は寝ても眠れない程後生が苦になる人のみが助かるものです」と言って去られた。
 皆が立ち去られ、私一人が眠たくて横になって居ると奥様(当時姉さんと呼んで居り現在は妻の母)が来られて、「眠らんといてや、頼むぜ、一生懸命自分の過去を振返って地獄行の種が多いか、極樂行の種が多いか、を調べて下さいよ」半分泣き乍の話に私は睡眠慾と闘ひ乍内観を続けました。
 昨日から岡山様が二河白道の話、藤蔓の話、達磨大師修行やらを承り、如何なる苦労も堪える覺悟をとられて、然る後に此の“身調べ”反省だが、どうしても眠い、困ったものだと思ひつヽ又一夜が過ぎた。家では母が私の帰りを待って居る事だらう。父へのもてなしやら言ひ譯に困って居られるだらうと思ひつヽ居る時、福本様が来て下さったので
「母が臼引きがすんでから父に頼んで行かして頂きな、と言って居られました」と言へば、福本様は貴男のお母様は素直でウブな丸い御方なので、信者の様に思っては居ったが、その一言で眞実でない事が解りました。御自身が過去に後生が苦になった体験があれぱ、そんな臼引がすんでからになさいとは仰言いません。先づ貴殿が入信して母を手引きなさい。それが眞実の親孝行です」と言はれてうんざりしました。
 暫く熱心に内観して居ると、涙が出て来るので紙を出して鼻をかむと、その紙はお習字の練習用として父が買って下さった立派な紙です。これを、これで鼻をかむとは勿体ない恐多いと又懺悔の涙にくれて居りました。
 十一月拾日の午後三時頃、油断をして居ると別室で「バケやお化や後生難儀ではない。矢張リあかん」と二十七、八のよく太った男の人の声が聞えました。私はどうしても事実、後生が一大事とも感じて下さいません。この上このママ居る事は御世話下さる皆様をだまして居る事になると感じた為一應郡山へ帰らして下さいと腰を立てました。
 香久山村からも二、三人御越し下さった様ですが、私が内観を中止して帰る事になったのを失望落坦、気毒に思ひ「惜しい事や」と嘆じて下さったが、どうも大事がかヽらないのに此の上大事がかヽって居る様な顔をして反省を続ける事は虚偽の行為であると考へ、二階へ上って靜かに寝て居りました。姉様が此の法を求めて家を出られた時、私の父は自分の長男の嫁の実家に当る此の森川家の將来を案じて、邪教に入らない様忠告に来られたそうだが、尊い尊い眞実の大法を、若し私が入信獲得すれば父にも染り、そして森川家の御主人様にも傳はる事と姉様は内心強く私の入信を期待して居て下さった事と思ひ乍も中途で挫折した事と詫びると共に、
「今後共宜敷これに倦かず導いて下さい」と頼めば
「コゲついて居るで、私の心は貴男の魂にコゲツイテ居るで」と手を握りしめて泣いて下さった。
 福本様は二階へ上って来て、五條に居る家内から予紙が来ましたから読みませう。
「病人様は柿をむく『ナイフ』を持って居られた様に思ふから取上げて下さい。何とかして此の尊い大法に遇はれる迄何日かかってでも御世話さして頂いて下さい」とルスを守る妻より夫への御親切な御聲援であり御忠告であった。若し大法に遇へなかったら失望の余り小刀で萬一の事があってはーとの御配慮でありました。
 下の座敷で靜かに一人で反省して居りました時は、何とも考へなかったのに、中止して二階で寝て居ると、皆様の御親切がヒシヒシと身に沁みて感じられ濁悪な此の世に於て初めて知る菩薩様の御心を! 何と言ふ尊い御方等であらうか。
 明くれば十一日、御師匠様等を関急の駅へ見送り、福本様を省線高田駅で別れ、高田女學校習字の當麻周二先生にも信者顔しては居ったが体験のない、學説だけの事でありまして恐多い、勿体ない事と謹んで御詑びに行きました。

 夕方郡山へ帰り、翌日からは眞面目に肥料販売に集金に立働き、夜は書道の練習に暮らして居ると、井上安之様から往生要集の本と御手紙が来ました。その一節に、
「自からはげみ、自から励んで常住を求めよ」とありまして私の求道心を振起さしむる御言葉でした。

 十日頃よりは日一日と又親の御恩も忘れ勝になる心の移りに驚立ち、十一月二十一日夜、遺書を残して家を出ました。半丁程行って振返り、「御先祖様行って参ります。吉本家の一員として今日迄よく養って下さいました。死を賭して永遠の生命を求めて来ます。永い間有難う御座いました」 止めどもなく流れる涙を押え乍ら夜の道を電車の駅へ急ぎ、高田へ向って走りました。
 何かの用事で来合はして居られた福本様に手引きを受けて居ると、十一時頃岡山様が電話で連絡下さった由にて来て下さいまして(腹痛を押へて)御熱心に開悟して下さいました。
 翌朝福本様が布施へ行って御師匠様と御相談下さると「つれて来い」との話らしく、姉様と岡山様につれられて諦観庵へ行きました。二十二日の夕方から二十七日夕方迄反省内観の徹底を期して御導き下さいました。
 十六、七才の頃、農園の柿収獲期にポインター種の犬をリヤカー(荷車)の先引きに使ひ、上手に引かないと言ってはなぐりつけた事、犬は私の顔を悲しげに、うらめしげに眺めつつ恐れおののいて泣いて居た哀れな態度を思ひ出し、許してくれよ、許して下さいと犬に對して懺悔の心持が湧いて来ました。悪い主人、無慈悲な親方とうらんで居たであらう。
 親の金を盗んで書道の碑法帖を買並べ、人様から師と言はれ、習字の先生と呼ばれる為、どれだけ外面を飾り立てた事であらう。商賣が達者だと言はれる事実が如何に上手に人様をだまして金儲けをした事だらう。大恩ある親の恩を恩とも思はず、孝行者らしい顔をして、自己を買かぶり自分をいつはり、何と言ふ空恐しい心の持主であらう。
 七、八才の物心ついた頃から今迄の自分を、親にはどうであったか、兄弟には、友達には、學校の先生には、どうか善い事が多かったか? 地獄行の種が多かったか? 調べれば調べる程浅間しい罪悪のかたまりでした。
 半月前高田で反省さして頂いた時、初めて知った“光明の徳”を記念に泣いて鼻をかんだ紙屑をせめてもの思出にと大切に懺悔の遺物として保管して置いたのに、僅か半月、十五日で既に忘れ果てヽ我を立て己を買かぶって居た私は今度こそは何としてでも信心を得度く、熱心と念力の總てを固めて命懸けで反省を續けました。 二十四日頃、中途で「誰が助かっても私一人は地獄行だ」と感じたかと思ふと、噫々私は助かった「地獄行だ」と知ったんだもの、嗚々嬉しい、母にも此の有難い大法を傳へよう。高田から帰った後へ「死んで知識はましまさず、一日も早く求められよ」と御手紙下さった福本様の奥様に厚く御礼に行きませうと、二階の部屋の角で一人嬉しがって居ると、姉さんが心配そうな顔をして「又油断をして呉れましたな」 不安そうな態度に襟を正して、今の気持を打明けると、「それは恐しい計ひです。心の中の悪魔がそうした邪魔をするものです。一刻一秒を惜しんで熱心に身調べして下さい。頼みますで。頼みますで。精神一到何事か成らざらんやからな」
 朝が来て晩になり、又夜が明けて晝になり、晩になり、何日間御世話になって居るのかも忘れて、二河白道の旅人となって三定死への境地へと、眞実一路、汝自身を知れ、先づ自からを知る内観一筋で一向一心に歩みつヾけました。
 しかし駄目でした。佛縁未だし。
 肝心の無情を感じてくれません。今死んだら此の魂は此の恐しい悪業を抱えて落ちて行かねばならんのに、と思ひ、心の表面では考えもしますが内心の奥底から驚きが立ちません。困ったものだ、
「何とかして後生大事と感じてくれ、早く目覺めて呉れないと大法には遇えないのだ」と自分の魂に呼びかけ頼み叫び続けました。でも駄目でした。私は諦らめて二階から降りやうとしますと、皆様が登って来て色々様々に気を取り直して反省を繰返し続ける様に励まし奨めて下さいましたが無駄でした。
 二十八日 久久振りで風呂へ入り、夜中に高田迄帰りました。
 二十七日夕刻からは淋しい悲しい思ひのまヽ、皆様にも迷惑をかけた、済まん事だと恐縮して居るのに、御世話下さった御方等は
「御蔭様でよい御法縁に遇はして頂けました。如何にむつかしいものか、よくよくの御因縁がなけれぱ人間の熱心や眞剣位では此の大法には遇へないと言ふ尊い事を知らされました。有難う御座いました」と反對に禮を言はれて愈々詫入ると共に、美しい此の人等と知り遇へた事だけでも、地上に珍らしい尊い人達と知り合ったのみでも大きな収穫であると自分を慰めて居りました。
 高田では大きな富有柿とミカン水を御馳走になり、三十日空しく郡山へ帰りました。

 その後商用で一日中の仕事を半日に片づけて自轉車を筒井か平端に預けて電車で大福や高田へ三日に一回は必ず御伺ひしては御法の話を承り、父が郡山に不在の時は岡山様のお宅で泊めて頂き、夜を徹して御縁に遇はして頂いたものでした。
 草可博文堂様と言ふ筆屋様の二階で習字を教へて居りますと、願正寺様の娘様が二人御越し下さって、その御母堂様が迎へに来られて御縁が結ばれ、願正寺様でも時々夜明けの鶏鳴を聞いて急いで帰った事も何回かありました。
 十二月三十一日、磯城郡に母の叔母たる姫廻マスと言ふ老人が法喜びと承って居たので行きましたが、之もイツノマニヤラ安心と言ふものだった。善知識も無く、何時が宿善やら、光明とはどんなやら知らず、唯聞覺えた話だけの信心で失望して帰る時、道畑まで追すがって来て、
「伊信さん、眞実信心頂いたら私をも済度しに帰って下されや」と大きな聲で叫ばれた事を今も懐しく思ひ出す    合掌
 お正月ではあるし、高田へ行けば岡山様も来て下さって夜を日についで又御法話でした。私が便所へ立った後で、姉さんが岡山様に
「見込みありますか」と尋ねられると
「大丈夫です、今度こそは」との話声を耳にしつつ私自身も何とかしてと考へては居りました。三日の朝郡山へ帰り昭和十二年一月三日夕方大阪市住吉区の門窪與三郎先生へ遊びに行き、夕飯を頂き、帰途フラフラと井上安之様の御宅へ立寄りましたら、井上様曰く、「貴男はもう助かりません、お気毒乍ら最も聞いてはならなぬ事を既に聞いてあり、毒を呑んである上に実行まで伴って居るのですから、全くどうにもなりません、もう貴男を手引する方法はありませぬ。若し大台ヶ原の山の頂上か三笠山の奥ででも、たとへ五日でも内観し、モノノ言はない岩にモノを言はして聞いて帰ればヒョッとすると又因縁があるかも知れない」冷水を浴せかけられた様な思ひで泣いて誓ひました。
「今度と言ふ今度は、自分にだまされなさんなよ」電車は既になく汽車もないのでトボトボ浪速区の東本伯母様宅で一夜を明かし、四日郡山へ帰り、夕方、財布を書斎の本箱中に置き、遺書もかヽず母に、「お母さんは私の身体が可愛いのですか、魂が可愛いんですか」
「そりゃ魂さ」
「そんなら此の水呑みなはれ」水盃、イルミガーターの塩水で洗眼をしてあげて之が最後の御奉公と思へぱ胸が熱くなり、深い話は何もせず、そのママ西へ西へ、生駒山脈の松尾山頂上に大穴のある事を目的に走りました。

 三年程前、五月八日頃山遊びに来た時覺えた大穴、昔マンガン試掘したと言ふ大きな穴を(地方では之を西山の穴と言ふ)探し出したいと考へ夕闇迫る山頂であちらこちらとさぐりましたが見つからず、遂に断念して
山を降り松尾寺で問ひますと、寺男が地面に略図を書いて教へて下さいましたので再び眞暗い山道を登りましたが既に遅く、月のない夜の山はしんしんと更けてかすかに汽車のキテキが娑婆の思出を知らして来る位です。
 私の心は穴が目的でなく、独り開悟、菩提樹下の釋尊の御足跡をへて進むのが目的だから、枯れた叢の中に法座を決めて坐り込みました。
 坐るとすぐに泣けて来て、泣いたのが信心ではない、泣いて居る時間も惜しい、調べるんだ、油断なく自身の過去を見つめるのだ、と心に鞭打ち励まし一夜は空しく明け過ぎました。
 早朝再び松尾山を訪れ頭を地面へつけるばかりに頼みましたら、うるさそうにして居られたが、私の態度が眞剣すぎたのか道案内して下され穴の前で別れました。
 中へ入って一生懸命調べました。今此の頭上の岩が何かのハズミでバサッと落ちたら私の命はないのだ。魂よ、無常だぞ。取つめてくれ、頼むぞ、と己が心に呼びかけては、又氣を取り直して反省を繰り返しました。┏の字なりになって居る穴の奥では、朝が来て晩が来て、又朝が訪れるのは正面のかすかな明るみで知るのみです。夜中居眠りして居ると、バササッとコウモリの様な鳥のハバタキで目を覺まし、之は吉本家の先祖様がコウモリの姿を借りて、しっかり内観せよ、眠るな、との御忠告だと思ひ、この不思議な現象をも佛様の催促と気を取り直して調べ続けました。
 先づ母の事でした。小さい時から苦労を掛けて居た事を次から次に思出す、総てが大恩に抱かれ乍ら忘恩の大罪を犯して居た事ばかりでした。母は裁縫の師匠であり、教へ手たる体験があったので私の學生時代は必ず先生の宅へ自分のヘソクリを削って盆、正月には届けるのでした。私は或る正義感からその親心を嫌ひ、断っては居リましたが、中學一年、二年と生意氣盛りになると田舎者でみすぼらしい、言葉の悪い母が主任教師の自宅へ盆、正月の御禮。私は嫌で嫌で恥しかった。親の慈悲を受取らず、嗚呼勿体ない、勿体ない。
 父の財布から金を盗んで貯金して、莫大な金を父に自慢らしく見せびらかして、父が、わしの財布から盗んで貯金したのでは何にもならへんとしかられた事、等思出る事の総てが罪です。今も尚御佛様の財布から盗んで財産が殖えたと喜んで居るのが親泣かせの張本人は心の中の賊、敵の仕業と知らされ乍らその恐しい悪業に引づられて今日も泣く泣く罪を犯すあはれな大悪逆人は私でした。

 七日の朝、大和小泉駅前の友人に此の衣類でも渡して一円也を拝借し磯城郡の岡山様へ行く積りで穴を出ました。
 山を降ようとした處へ村の人々四五人が、私を探出す為来て居られ、バッタリ出遇って、私は二河白道の後から呼止める悪い群獣の類を思出してギョッとし「来るか?」と杖を振上げましたが先方は多勢、私は一人その上何も喰べてないので足も少しふらついて居る事とてすぐ思返し、「どうぞ見逃しておくれ、頼みます、頼みます」と今度は手を合はして頼みました。
「伊信さん、帰ってあげておくれ、お父さんが死にかけて居られますぜ、帰ってあげておくれ」
 私は心に誓ひました。
「ヨーシ此の心を外すものか、今暫くは帰るけれど、此の求道心は忘れるものか」と
 弟が持って来て居ったオカユをたべて家へ帰ると、握り飯の山を築いて大仕度、今少しで鐘や太鼓で大和中を探出す準備との事で、私も驚いて、「皆様御心配かけました、とうもすみません」と謝って座敷へ通り、お佛檀へ御礼をして寝ました。子供の頃、私の子守であったサキヱ姉さんが枕元へ見舞に来て「心配したで、心配しましたぞ」と泣いて居られた。私は「御開山様は御開山様の御苦労を御跡慕ふた者のみが救はれるんだらうな」と言へぱ、姉様は私の無事で居た事を喜び、又世間の噂では、神経衰弱で気が変になって居ると聞いて来たのに、眞面目で確かそうだし、唯嬉しくて嬉しくてと泣いては又私の御法話を有難そうに聞くのでした。
 法隆寺管長様の毎年夏、百日を参り続けて居られる信者様が見舞に来て私に御親切な御心で、「その心、その氣、お見抜の、お目的の本願だっせ」と大きな声で教へて下さって、内心では「ハハン、此の人も気の毒にそんな軽い事では話だけですわい、墨絵の桜ですわい」と思って居りますが、表面は
「有難う御座います、御苦労様です」と口先だけの御礼を言って帰って頂きました。その夜、父から、「頼むから佛法は止めておくれ、お寺へなら毎日でも参っておくれ、そのややこしい處へは諦らめてくれ、今度といふ今度は、私も二日二晩泣き暮らした。こんな悲しい目になったのは生れて始めてや」と泣いて頼まれると私も情に引かされて
「かにしておくれ、もう何處へも行かへん。もう行きません」と泣いて謝りました。本心からそう改めました。
 その朝、山の上で心に誓った求道の決心も、父の涙にはもろくも打ひしがれて本心から改める可く謝りました。
 何と言ふ後生知らずでせう。我が身知らずであったのでせう。心はコロコロで朝の求道心が晩には既に亡んで居りました。
 九日は友人入營の歓送式に司會役を務め、気違ひの誤解を解く為に努ましたが、役場でも私に、「余り勉強し過ぎなさんなよ、お父うさんが心配されますからね」と当時村会議員を永年続けた父の御蔭で役場の人々もよく知って居て忠告して下さるのでした。
 十五日、浄光寺へ例年の御開山命日で参らして頂くと、新発志、石田民夫様(龍大専門部卒業、今は故人)曰く、「伊信さん、そこから眞剣に求めなされよ、三定死の境地と言ってね、行くも死せん、戻るも死せん、止るも亦死なんとの境地に突進むのにはそこからや」と、老院主様横から、「こら馬鹿な事を言ふな、親が心配するがな」としかられた。内心で私は「若いのは法に眞面目だね、老人は世間態のみが大事なんだ、學生上りでも偉い事仰言る。さすが専門部卒業だけはある」と感心して居りましたら、又心の奥から高上りするな、高上りするな、と叫ぱれた様に感じた。
 後で母に承った話だが、正月六日の夜は、お父さんが書斎のお前の財布を見てから泣き続けられて気違ひになられへんかいなと心配しました。寝靜まりはったと思ったら又大声で
「今頃は死んでるわい、何處かの山で死んでるわい、可愛想に、可愛想にな」と泣叫ばれるので恐しかったよ、との事でした。
「淨光寺で又そそのかされた」となると、後のタタリを恐れて老院主は、新発志をしかられたのも無理はない。
 扨て月日は夢の如くに過ぎて、二月十七日には五條の長男、福本義一様が中川松次郎様と共に御入信され、私は三月末、何とかして家を出たいと考へ込みました。多くの宗教関係の本を高田へ預け、本箱は書道の参考書のみにして毎日晝は肥料商を手傳ひ、夜は書道の研究を続け、表面はすっかり求道を断念した様に見せかては居ても、岡山様へ、願正寺様へ父に秘して通ひ続けました。
 草可博文堂様は筆を賣る為、福井縣の師範學校で新國定習字手本の教授法たる講習会を開かれるとして、私も講師の一人となり、縣下の教員を集めて、とのプランを假設して印刷物を造り、三月二十三日出発する予定を立てました。
 何も御存じない父はテッキリ眞実と思込み、その印刷物を人々に見せぴらかしては、息子の書家たるのを自慢して喜んで居られました。
 何とかして家を出たい、この念願を達する為に草可様には福井市からの土産物まで持帰って頂く様手配して三月二十三日を待って居りました。
 愈々二十日の夜高田で、福本様曰く「一週間程で大法に遇って無事に帰らうと言ふ様な心の程度ではいけません。金鵄勲章を欲しさに戰に臨んだのでは立派な手柄は出来ない様に、命を投捨てヽ懸らねば本当に遇へません。特に貴男の場合は御父上様から、此の子にどうぞ、大法を聞かしてあげて下さい。萬一死んでも満足です、との御話がなければ相談にのれません。実は十一月末頃も御宅の御尊父様が警察へ訴へるとかの話を聞きましたが、私は一命捧げる覺悟をその時は決めましたが、成可く摩擦を避ける可く、以前に了解を得て置きませんと尊い尊い此の大法が何か人を誘惑する道の様に誤解されると勿体ないですからね。特に資産家の息子様とあれば余程注意しませんとね」 噫々永い間の計画も水の淡!
 相談一決、森川己之治郎様とその父善吉ぢいさんとが態々郡山へ来て、総てを打明け、父に頼んで下さいました。父は、「御苦労様です。つれて行って下さい、その代りに私は警察へ行って聞いて頂きます」
 善吉ぢいさんには、娘の嫁入先の父に当る事とて打解けて、「年の二十二才で後生大事と道を求めての珍らしい事でもあり、布施の諦観庵も仲々尊い有難い處で、私も以前聞かして頂きましたが、結構な御教へですから、是非暫く御暇を与へて頂けませんやろか」と御親切に頼んで下さったが、父の警察行と承って、恐縮して御帰りになリました。噫々萬事休す。
 四月十四日 門窪先生と桜の花を眺めつヽ 、先生曰く、
「轉迷開悟、安心立命への為に命を捧げて、との御誠意は有難いが、五日や十日で解決はしませんからね、一日も早く結婚して別家の上、世帯主となってからでも遅くはないでせう」
「それ迄命があればよろしいが」
「と言はれる、とは思ひましたが、兎に角大問題ですから人間一生を通じ捧げて励むべき大仕事ですから、早く世帯主になって、それから出直しなされよ」
 五月一日、婚約が整ひ、二十三日森川己之治郎様の長女キヌ子が私の妻として結婚式が擧行され、八月三十日大阪日本橋の森川出張所へ、レザー別珍商の手傳ひに行く事となり、
 九月一日、漸く父と別の釜の飯を喰べる様になりました。
 妻は三月三十日五條に於て大法に遇はして頂いてあったので、夜分無意識に南無阿弥陀佛々々々々々々と眠って居り乍ら御稱名を口走って居ります。傍で私は、
「眞実信心の御稱名は有難いが私の念佛は伊達か杖か、空念佛や早く早く一日も早く御法に遇はして頂き度いものだ、昨年十一月末、皆様が奨めて下さった時何故中止したのか」と恨めしげに、己が心のみじめさを抱きしめては人知れず夜具を咬みしめて泣き悲しんだものでした。毎度の事乍ら幾夜か迫りくる死の恐怖に追はれ、罪悪感に襲はれつヽ泣いて泣いて泣き偲んだものでした。
 十月中旬頃、福本様が(妻の伯父さん)店へ來られて、曰く、
「あんたとこの御父うさんが御理解無ければ布施は受付けませんぜ、人間は老少不定ですから萬一の事があると他の人々にも気毒ですからね」
「若し途中で死んだら屍を長持で運び、此處へ寝かして後、電報で、伊信キトクと郡山へ知らして頂ければよろしいでせう」

 十一月八日、しとしと雨の降る夕方でした。高田へ行き、養父森川己之治郎様に、「永らく御世話様になりました、キヌ子の事は宜敷御願ひします」永遠への別れを告げて、磯城郡の岡山様へ急ぎました。夜の中に吉野郡大淀町、北川源一郎様へ落付き、翌九日夕方、愈〃迷ひの墓場、尊い法座に、自己求明へと 南無阿彌陀佛  合掌
 瀧の音が、トウトウと靜かに聞え、その一滴の水が海へ海へ、そして再び因縁あって此の小川の瀧となる水は? 此の私の魂も、霊魂は滅にあらず、不滅にあらず、永遠に流轉輪廻するものとか、今此の世に於て、現に今此の大法に遇へなかったら何れの時にか救はれるべきや。
 遠く二阡六百年の昔、大聖釋尊よリ以来、一器の水を一器に移し、血脈相承の佛法が末世の私に、噫々此の道、此の法、固い決心と勇猛精進を誓って法座につきました。
 一心一向になって、さらに餘のかたへ心をふらず、と反省内観身調べへ、善知識様の御言葉にハイハイと信順して進みました。途中で又惓いて止めやうかとも思ひましたが、何回も気を取り直し調べれば調べる程、極樂行の種らしい善根は見当りません。
 北川オナミ様、喜多源平様も岡山様や福本様の様に時々御越し下さって、「油断しなさんなよ、大事だっせ、一心になって調べて下さいよ、油断されるなよ」と私は前のめりにブッ倒れました。そこからは○○○○○○○
 ○○○○○○○○
 ○○○○○○○○ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
 十二日午後八時頃、後生の夜明け、轉迷開悟、噫々何と言ふ嬉しい事だらう。もう何時死んでもよい。
 御師匠様、岡山様、井上様、福本様、母上様、永い間御苦労かけました。畳の上を轉々転ぴ転びの嬉し泣き。此の喜び、此の感激を以ってせめてもの御礼に大法の流布徹底に邁進を誓ひました。
 お父うさんが止めて下さらなかったら尊い大法を軽々しくもて遊んで居た事だらう。お父うさんが居て下さった御蔭様で眞剣の大事が懸ったのだ有難う。有難う。北の方遙かに伏拝み、父にも泣いて御礼言ひました。
 南無阿弥陀佛
 寝ても眠れず(四日間眠ってないのに)終夜、井上様の御法縁に遇はして頂き翌朝母を高田へ送り、午後上の太子へ廻り、聖徳大子の御璽前に懐しい懐しい感惰の溢るヽまヽ泣いて泣いて泣きぬれて居りました。ホッと気附けば野良帰りの村人等が十名程不思議想に、珍らしい様に、大聲で泣いて居る私の姿を見て居られました。足が一尺程、空気の上を歩いて居る様で、何を見ても考へても、嬉しくて嬉しくて歓喜の光に酔って居りました。
 釋迦往来八十遍、嗚々御手間掛りでした。
 噫々、御苦労かけました。有難う御座います。有難う御座います。
  涙   南無阿弥陀沸                     合掌

信後
 昭和十二年十一月十九日、養父森川己之治郎様と願正寺へ参詣して翌朝迄御育てを受け、父は宿善あって求法へ発心され、二十一日井上様へ行き夕方布施へ、そして二十五日芽出度く御入信下さいました。月末より秋津村で中川義雄様が道を求められ、十二月中頃高田の森川宅で宿善開発、次から次へ新佛様が殖えて行きました。私の精神生活の内容は何時の間にか報恩感謝も薄らぎ、腐敗堕落へ急いで居たのにかヽはらず、当時は「一念発起すれば故籍は御淨土へ。もう落ちたくても落ちられん身にされたのだ。若し疑へば佛罰が当る」と信じられて居りました。又私自身も、確信して居りました。その一例として福本義一様が、「私の信心はどうも頼りないから後生が心配や、今一度やり直しさして頂く」と言って、父が内観して居られる頃、布施で坐り直して半日程すると身体が苦しくなり、クタクタになって弱られた。それを介抱して居られた母(義一様の叔母)は「勿体ない、勿体ない、恐しい事や疑はんときや、普通の病気ではあんなには苦しまぬものや、本願を疑ふから佛罰や」との事であった。
 又、中田秀雄様が御家庭で、その母に「布施の尊い御法座へ行くなと言はんといてや、余り止めると後へ戻るで、戻ったら困るやろが」と言って居るそうだが仲々戻るものかいな、又戻れるものですかいな、定散と違ふ、眞実だもの、と皆で噂をして居た程、一念の尊さを信ずると共に、三世通じての本願だ、本願に打勝つ程の悪がないのだからとも皆で思って居りました。
 昭和十四年三月から、弟伊左ちゃんも、今阪常春様も、森川淨様も入信して四月には、兄嫁光江姉さんも、十八日には母上様も御遇佛、と実に嬉しい事でした。
 光江姉さんの生活態度の変化に依り、父も驚き布施の御教へは何と言ふ尊い有難い大法であらう。私は邪教だと思ひ込み、知らぬ事とは言ひ乍ら勿体ない事を犯した、恐多い事だと廻心懺悔求道の熱意に燃えて歩まれました。村でも念佛の家として一家和樂の温みには羨望の的でした。(昨今ではそうでもありませんが)

 眞宗の発展を阻害するもの「一念邪義」 我が諦観庵の恩師駒谷諦信師は此の一念邪義を恐れられ、信後十三年も泣暮された御体験で、私をして危く御助け下さいました。噫々思へば思ふ程、偲べば偲ぶ程山より高き、海より深き師の恩を、今は亡き恩師の大愛を懐しく慕ひつヽ今その一端を拙い筆に留めませう。
 忘恩の大罪を深謝しつヽ 合掌。

 社会事業家たる陸軍中尉中川義雄様の御入信に依り秋津村を初め各地で布施諦観庵の存在は実に有名になった、そして我も吾もと今回も三人、今度も五人と、壱ヶ月に十数人ものおぴたヾしい激増に御師匠様の顔色が悪くなり、心配げな、御不安の様に察せられました。
 昭和拾四年六月末、布施へ御伺ひしますと、恩師が私に、「私の師匠西本諦観師が御存命中に老婆の或る同行がね『御師匠様は沢山御入信の信者を育てられましたが、あれは皆御淨土へ参れるんですか』と問はれますと、西本恩師の答へに『いいや、縁つけたヾけや、報土往生の出来る人は百人中で一人か二人位かも知れぬ、三人もあれば有難い事や、残りの九十七人は、佛縁を結んだだけですね』と仰言ったんですが、吉本さん、貴男はその三人の方だと思ひますか、九十七人の中の一人だと思ひますか?」 私はうろたへました。返事に困りました。
 三人の方と言へば眞実の精神生活の内容が出来てないし、又九十七人の方とすれぱ、そのまヽ死んで行けますか? と切込まれるだらうし、さて困った。
 顔を赤らめて、うろたへて居る私へ、御師匠様は蓮如上人様の御文章第二帖目最初のオサラヒ章を引用され、「さりながらそのまま打すて候へば、信心もうせ候べし。とありますが、一念に遇へば落ちたくても落ちられん身にされたのなら、この信心もうせ候べしの御言葉が不要ですね。尚祖師も教行信證に、『若しまたこのたび、疑綱に覆蔽せられなば、更りて復曠劫に逕歴せん。』と仰言って居りますが、どう味合へますか?」
 私は驚きました。最近恩師の顔色の芳しくない理由も解けました。昨今粗製乱造たる俄か信者の信後相続の姿が、頭痛の種だった事がはっきりしました。私は不審そうに
「一念の喜びは一劫に一度びと言って永久に来ないので、後々続かないのでせうね」と問へば、「朝飯を喰べたら晝飯も夕食も不用なのでせうか?」
 「一念の喜びは入學式とすれば入門の翌日からは内観もせず、反省もせずとの姿でよいものですか? 法を聞く身にして頂いた入門式を卒業式と間違って居りませんか? 習字なれば筆の持ち方、姿勢や手本の見方等練習の基本を教へて頂いたのみで、極意皆傳と間違っては居ないですか?」

私「一念に遇っても信心のみぞをさらへなかったら地獄へ落ちませうか」
恩師「おさらひの御文章を何回も御拝讀下さい、蓮如上人様が御親切に『これ程早目に見えてあだなる人間界の老少不足のさかひと知り乍、只今三 途八難に沈まん事をば露散り程も心に掛けず、いたづらにあかし暮らすは』とあるのは誰の事ですか、誰の事でせうか」更に御丁寧に、「念々稱名常懺悔とはどんな姿でせう? 盲目人が一念の提灯を自慢そうに振りかざして居ても、火の消えて居る提灯になって居りませんか?
折角、我が身の眞実の姿を見せて頂いたのに見失って居りませんか?
自分に聽くと言ふ尊い耳をつけて頂いたのに、昨今の生活はどうですか?」

 噫々、何と言ふ有難い、慈悲深い御問ひであらう。更に恩師は、「私への返事は不要です。自分の出て行く魂に此の返事をしてあげて下さい」と仰言ひました。
 既に御老令の御事とて私は壱人で恩師に代って出かけました。下市へ、五條へ、高田へと、この大問題の返事を伺ひ、恩師へ傳へる可く走りました。中には簡単に何げなくお答になる人もあったが、眞剣後生に大事一大事をかけて、返事に困り「どないしませうぞなあ!」と五体投じて嘆き驚かれた御方は僅か三人で、其の他、話だけは成程と分って、姿や態度に寫らない人が約十人程もありました。総勢百数十人の中で、これはこれはと思ひましたが、実は私もその十人の中に数へられる位であって、こんな事ではいけない、これでは困ると思ひつヽ、世話役を手傳ふ位の事でした。
 扨て、師は針の如く弟子糸の如し、との話について来られた三人へは、御師匠様の御態度が、初めての病人様(求道者)を育てるのと、殆んど同じ方法で、内観・反省の一路でした。
 一度大法に遇へば永久に後へは戻れるものではない、と信じて居たが既に房って居る自分の姿を気づかされ、
 落ちたくても、心も身も南無阿弥陀佛の功徳廣大にして染まらぬ所なし、
とは聞かされて居たが、何時の間にか薄らぎ、昭和拾壱年十一月迄は不平不満愚痴三昧の私が十二年十二月頃迄は報恩憾謝法悦の生活でした。ヤレヤレ入信したと思った日から日一日刻一刻不法解怠に流れ、又元の不平不満愚痴の魂に戻って居りました。この恐しい無法解怠の自己たるを知らされ、一念邪義の迷信から覺されました。

 三田源七同行が信者廻りに歩まれて
「コレデと言ふものが出来たら永の御いとまと思ひなされよ」と聞かされたさうだとか、一体どんな気持で聞いて居たのであらうか。後から私の質問を縁として布施へ来られた御法の兄弟衆へ御師匠様は、「私は御法に遇はして頂いてから十三年の永い間惱み苦しみ悶えました。信後相続とは、火鉢を圍んで酒・飯・茶のみで別れるのは佛法の本意でないと蓮如様も仰言ってある。此の頃の皆様はどうでせうか?
 私は法に遇ふた、と決め込んで片付けて居りはしませんか?」
 眞実一路、恩師の御生活は実に宗教一本であった。
 物價が如何に高くなっても、維持費も上げて頂こうとも言はれないし、他に内職でもして別収入の途を開こうともされなかった。そして清貧赤貧に甘んじて、一枚の紙も大切に大切に使はれたものだった。
 今は既に岡山様も御師匠様も、井上様も願正寺様も此の人でない。全く夢の様だ。然し眞実の御教へは、此の四人の功績は、遺弟の法悦に依って永遠不滅、燦として輝き渡る事であろう。

 最後に、恩師はよく仰言った。
 永年の病氣(迷ひ)を、皆様の御蔭で(家庭の人や善知識様)入院・養生、服藥(法座で内観)さして頂き、六字の妙藥で全快(入信法悦)さして頂いたのに、又候、不養生の為(不法解怠)恐しい病気に犯され(迷ひ込み)慾しい惜しいと苦しみ乍治った積り、全快の積りにだまされて藥を呑もうとも、養生しやうとも思はないのは誰であらう?
 信心のみぞをさらへると言ふ事は藥の効能や話を聞き直し、覺えなほすのではなくして、藥を呑む事や、藥を呑むとは自分の実際に目覺める事であって凡夫を凡夫と知る事や、自己の眞実を知る者のみが佛様の御慈悲を知るんです一」と                  合掌

信前信後 終り

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