奈良県大和郡山市高田口町9-2

『救世真法』

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『救世真法』                目次

一、序文                          ⇒本文へ
二、各文献よりの抜書
三、反省の方法                     ⇒本文へ
四、信者西向院西本諦觀師御略歴         ⇒本文へ
五、自然法悦より食糧と失業問題の解決策
六、信前信後                       ⇒本文へ
七、救世經濟政策の大綱
八、社會主義統制を癈して信仰で救へ
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『救世真法』

一、序文
 近時新聞、ラジオを通じて猛省を促すとか、再省せよ、内省すべき時だとか、強く叫ばれて居るが、眞にその反省をやって居る人は何人ありませうか。
 反省とはいかなるものか。について過去及現代心讀の書より要文を抜き取りまとめました。
 勿論此の書は、教へる爲にではなく又與へるの書でもない。私自身導かれつヽある言葉の集まりであり、事實の告白で御座います。若し此の書が御入信の御縁とならば嬉しい有難い極で御座います。
 經濟論は若志實施されれば必ず世は救はれると堅く信じます。一日も早くと念じつヽ                                          合掌

                           信保書院にて       伊信識す
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『救世真法』

三、反省の方法
 頭で考へず、凡夫の智慧を使はず、自分の實際の姿をアリのマヽに視る事である。
 一室にとじこもって、たとへ十日間でも七歳八歳の物心づいた幼い頃から現在までの自己が行った思った事を、又現在の行爲を振返り、繰返し繰返し自分を調べる事である。
 ハヽン成程と合點したのが信でなく、倦まずたゆまず善い事が多かったか、悪い事が多かったかを調べて行く。十歳位の時、十一歳位の頃、十二歳位の時代と、親に對して、友人に對して、兄弟に對して又先生に對して、子に對して、どうであったかを内觀するのである。
 釋尊は菩提樹下にお坐りになって直ぐ轉迷開悟されたのではなく反省をされてからです。
 反省すれば必ず慚愧が伴ひ、慟悔の後には必ず感謝報恩の念が湧き出て來ます。懺悔の伴はない感謝では眞實の報恩になりません。自からの不忠に氣づき、不孝を知る深さだけ眞の忠孝が行へるのであり、せめてはとの思ひのみが眞實の忠義も孝行も湧き出るものと信じます。
 身體の病には醫科大學や醫専の如き學校があり。病院もありますが信仰方面の心の病を治すには寺院や教會の如く學校に匹敵する機關設備はあっても、病院に相當する組織、習慣が無いので、概念の遊戯に過ぎない。稀にあっても坐禪とか靜坐とかは形式的な型のみで心の迷を轉じて悟らしめる場所機關の無いのは悲しい。教會や寺院は葬式の道具や説教を聞くのみでなく、内觀する場所として活用する世にしたいものである。
 若し求法の御心があれば何時にても御越し下さい。法は出て聞けとか言ひますから、病氣にかヽったとでも思って魂の目覺め、心の養生に、十日程入院の氣持で御越し下さい。自己を知ると言ふ習慣がつけば御淨土の次の世界で暮らせます。
 詳しくは面談の上實行して頂ければよいと思ひます。
    南無阿彌陀佛々々々々々々                        合掌

    わが心鏡にかけて見るなれば
        さぞや姿のみにくかるらん

    受け難き人の姿に浮かび來て
        こりずや誰も又しづむべき

    知るとのみ思ひながらに何よりも
        知られぬものは己なりけり
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『救世真法』

四、信者西向院西本諦觀師御略歴
 伊豫の國宇和島の藩で代々績く豪農家に御生れになりまして幼少の頃父母を失ひ給ひ御親族協議の上肥前の國天草の祖父の元に引とられ拾參歳の春西本願寺明如上人の學師として有名な佛學者たる豊後國南湲師の御元に内門人として入り給ひて五ヶ年間御熱心に佛學を御學びになり螢雪の功成りたれど高木は風に打たるヽの習で茲に御師と御相談の上一足佛道修業に諸國巡廻の途につかれました。

 その後西本願寺へ役僧として入り給ひ盆々御勉強に餘念なく或る時法藏倉に入らせられ御學問中八代目中興の師蓮如上人の御文章に一心一向に深くたのめと手に取る如く御殘しあるに。
 今迄は度々見ながら心に感じはなきものをはてはと胸に行づまり眞劍一心一向になれて居るか?なって居るか?と自からに問はれどうした事か氣にかヽり布教に行け共心に沈み悶え苦しむのみで御座いました。

 或る時本山よりの御指圖で桑名の別院にて七日間の御説教の折貳日目の晝休み中或御書物の中に曰く。
「昔の僧は身を捨てて法を求めたが今の僧は法を賣って身を養ふ」との御文を見られ給ひてより益々いたく感ぜられ、殘りの五日間を中止して早速御本山へ歸り、後生の一大事と道を求める可く暇を取眞實二河白道の旅人となり知識を求めて求法の旅に上られました。學者としては歳若くて司教となり堂々たる布教師樣が御自分の御魂が可愛いさに、永遠の生命が大事さに、あちらこちらと高徳の師を探し求めてはひれふしてきく積りなれど、今迄の學問が邪魔をしてかどうしても後生の夜明が出來ず能登の國。
 千惠光師こそ學者の信者と思ひ夜を日についで北陸路の山野を越えて雪の國能登御着きになりました。
 千惠光師の御元で三日間法儀示談されたが御互ひに學説のみで果てしがなく、出て行く魂の解決には程遠い住家なる故一書を頂き。
 比叡山の開悟院師樣へ振向けられました。此の御方は百日間藏の中から錠をおろして内觀反省され、懺悔の上肉眼がつぶれると共に心眼の開いたと言ふ尊い開悟院樣へ泣きの涙で行かれ二十日間の御育てを御受けになりました。此處でも學問沙汰に終り説から説へ話の話に渡り轉迷開悟に到らず、遂に
「千惠光師の手餘者よ出直して來なさい」と再び能登へ返されました。
 悲痛落擔苦惱の一日一日を再び北陸路へと急がれまして、漸く能登へ着かれましたが、千惠光師樣は御本山へ上られたとの事で、すごすごと又元來た道を京都へ、野に寝、山に伏しての苦勞をものともせず、無事着かれた頃は既に懐しい恩師は九州の異安心を判く爲、御法主樣の御命令で旅立たれた後で御座いました。
 「此の儘死ねば何處へ行くんであらうか?何の爲に此の世に生れて來たのだらう?」と思へば、勇氣を取り直し中國路を九州へ百數拾里の遠路をいとはず行かれました。途中であまりの苦しさに後生大事の氣持も薄らぎ、斷念しやうかと思った時、長い間の疲勞が一時に出たものか身體がこはばって動けなくなったさうです。
 内心の惡魔に負けてなるものかと元氣を取戻して御跡を慕ひ、はるばる九州へつかれましたのに既に又用件濟まして御歸京された、と聞くやその塲に六尺豊かな大の身體を、くたくたと坐り込まれたそうですが、迫り來る無常を、死を、恐るるの餘り白熱的な求道心を振起こし山陽道を直しぐら、思ひ出多き京都へ來られましたのに千惠光師は能登へ御歸りになった後とて、休む暇もなくその足で食ふや食はずの永い旅路を重ね漸くの事に半死半生の姿で能登の國へ御着きになりました。
 それは暮六つの時とか、重い足をひきづっての苦しい旅につかれ果て見るかげもない、あはれなみすぼらしい姿を千惠光師は一眼見ると言葉も出さず手を取って奥の座敷につれて行かれ、いとねんごろに拾九日間御育てを御受けになりました。
 獨り靜かに自からの過去を清算する可く、菩提樹下の釋尊の御跡をしのび、夢殿に於ける聖徳太子樣の御道中を拜慕ひ申しげ、現在の自己求明に依り、過去世を知り後生を知るの内觀一道を身命を賭して進まれました。
 前に來られた三日間の御示談は學者として、話の世界に學説の陳例で自我が立って果しがなかったのですが、今回のは自分の思ひや知識はあてにならんと振り捨てヽ、ひたすら恩師の御導き通り
「自分を調らぺよ」といはれれば餘念なく自分を調べる眞面目に眞劍に自分を調べる事に掛り果てヽ愈々行くも死し、退るも死せん、止まるるも死せんの三定死の境地に到り給ひ、小さい一息の呼吸をたよりに火の上に坐って居る心地がしたそうですが、廻心懺悔の末五體なげに捨てられた時、轉迷開悟芽出度く夜明け遊ばされました。
 永い永い間の苦勞で御座いました。その惱みは筆や口では表はせず、只實行する人に依ってのみ味合はれる樣で御座います。

 その後喜び勇んで西本願寺へ御歸へりになり感謝報恩の生活を布教に捧げ、法悦の内に月日を送って居られました。
 明如上人に御仕へなさる折も折、九州地方に秘事法門が起り、強大な勢力の爲御門主明如上人は深く心を痛められ。それを破るには西本諦觀師より外に適當な人なし、との事で御法主樣の御聲掛りでその大役の命を受けさせられ、けさも衣もつけず同行姿で九州へ下り一命賭しての苦勞の末、見事に秘事を打破り西本願寺へ御歸りになりました。
 その後しばらく明如上人の御元に御仕へなされ、御引立の御言葉もありしが、御自分から御辭退致され、在家の人と身を落し、僧にあらず、俗にあらずの祖師聖人の御跡を慕ひ、同行の身となり遠く北海道迄布教傳導に晝夜の別なく御辛勞下さいました。
 大阪の在生玉のほとりに小さなあばらやに喜んで過され、紀州、大和、四國、神戸と次から次へ御高徳を慕ふて集り來る同行は非常に多くなりました。明治四拾五年七月廿一日御歳六拾歳を以って目出度大往生遊ばされました。
 御自詠の御歌に

      おほぎとて  たたんでもろたお六字を
         開いて  あふげ  こころすずしき
                南無阿彌陀佛  合掌

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『救世真法』

六、信前信後
 一人一日の中八萬四千の思ひあり、念々の所作之皆三途の業なりと言へり。斯くの如くして昨日も徒らに暮らし、今日も又空しく過ぎぬ、之を幾度か幾度か明かさんとする。
 それあしたに開く榮華は夕べの風に散りやすし、夕べに結ぶ迷路はあしたの日に消えやすし、之を知らずして、常にあらん事を思ひ之を悟らずして常に榮えん事を思ふ。
 しかれども無常の風一度吹いて有爲の露永く消えぬれば之を廣野に捨て之を遠山に運ぶなきがらは苔の下にうづもれ魂一人は旅の空に迷ふ、妻子眷族は家にあれども伴はず七珍萬寶は倉に滿つれど益なし、唯我が身に從ふものは後悔の涙なり。
    亡き恩師寺本清祐先生御愛誦の法然聖人法語の一節なり

            南無阿彌陀佛
               反省内觀
               懺悔報恩
               聞己即悟

 先般大恩ある岡山榮次郎樣に先立たれ、去年七月二十二日願正寺樣にも死なれ、今年七月三十日恩師駒谷諦信樣も逝かれ、續いて八月十三日先輩井上安之樣も永眠されました。
 その上古今未曾有の大戰たる大波に襲はれ、愈々益々浮世の浮世たる はかなさ をしみじみ味合はして頂くと共に現に今、生かされて居る事實の不思議さに御佛樣の御苦勞を感謝せずには居られません。
 この幸福な惠みを知らして頂いた深い深い求道からの御因縁を、皆樣の御苦勞を、アリのママに告白し御恩を 感謝の思ひ出 として綴ってみました。
 御師匠樣を始め、今は亡き先徳方も、噫々御淨土から總てを見て御座る。私の不法解怠を嘆じて居らるヽことヽ思ひつヽ                          合掌
 之を縁として駄馬に鞭って下さる事を望みます。         南無阿彌陀佛
    昭和二十年十二月十六日          於信保書院     伊信識す

信前
 昭和拾壱年十一月四日、奈良縣五條町 福本義乗樣を伺ひ「最近布施の何とか言ふ教へを信仰して居られるそうだが如何なる方法、組織であらうか」と研究的な又は好奇心的な思ひもあって訪れました。
 當時二十一歳の青年乍既に一流の安心に住して居る積りで人々に信心を獲得して頂く樣奨めて歩いて居った私は、元より教を乞ふ氣持ではなく、視察的な感じで御座いました。
 福本家は代々佛法に御熱心な家で、特に先代の主人は永い間眞實の大法を求めて御苦勞され、當代の主人も謹嚴實直で永年町會議員にも選ばれ指折りの資産家、素封家とて、先づ社會的には私もその御人格を信じて居りました。それが私をして、此の大法に縁付けられた最大の原因かとも考へられます。

 扨て、勤行も濟み夕飯も終って火鉢を圍み、先づ福本樣から
「お正信偈樣の中に難中之難無過斯とありますがどう味合はれますか?」と問はれ、同伴の淨光寺僧侶米澤友重樣が
「名號の尊稱でせうな」と僧侶らしく御答へになりました。傍で聞いて居る私はそんな事柄より
「布施はどんな教を、どうした方法で聞かすんですか? 學生の武道合宿練習の樣な形式ですか、都合に依っては私も一度講習を受け度いが」と福本樣に尋ねました。がその問に對する答より私に向直って
「念佛は無我にて候、と蓮師の御一代聞書にありますがこの味が喰へますか、無我になった覺がありますか」この問には私も少し面食らひました。従來は講習會や説教で聽いて覺えて知った事が信心であり、疑はない事が安心の樣に合點して居た私に、味合ひとか、體驗とか、尋ねられたのでは、サッパリ方角が違うので靜かに承って居ると更にお領解文を引用して
「もろもろの雑行雑修自力の心とはどんな心かわかりませうか?我等が今度の一大事の後生とあるが、一大事の後生と感じた事がありますか、火は熱いと話に聞いて覺えて居るのと、身に觸れて熱いのと違いますよ、御助け候へとたのみ申て候 とあるが、たのんだ覺がありますか」とたたみつけられて、米澤樣がどんなに返事なされようとも私自身がこれはこれはと思直して居ると、ヒョッと昔讀んだ石丸悟平樣の著書にこんな一節がありましたが、と前置して
「『現在の淨土眞宗は既に人を救ふ宗教ではない。親鸞聖人の山を降りられた意識を體得した者のみが救はれる』とありましたが、布施の教へはつまり後生を一大事だと思はしめる團體ですか」と反問しました。先方樣の
「マァそうですね」との御答へに少し得意げとなり私も是非一度御伺したいのですがと言へば
「吉本樣は未だ眞劍な後生大事になって居りませんから御師匠樣宅へ行かれても玄關拂ひになるから、先づ大阪市住吉区の井上安之樣を訪れて御師匠樣へは後になさいと略地圖も書いて下さいました。
 奥樣の御言葉では
「後生難儀でなくても、兎に角行って見なされ、皆樣の御念力で何とかして下さいますから」と勵まされた。翌朝一先づ郡山へ歸りました。

 長野縣の精華書道院の理事となり、書道と佛教と題して書道雑誌に長い論文を送って居た私の生意氣な“何時の間にやら安心”と言ふ安心が少しぐらついて來ました。
 歸ってすぐ母に、總てを打明け
「今迄は病氣だとも氣づかず、藥も呑まず、養生もせず、治った積りで藥の効能や、全快者の幸福を聞覺え、讀わけて知った事が、信心と思ひ込み、人に話せる事に依り信者顔しては居りましたが、眞實信心とはそんな話の世界ではなく、體驗、実驗、身に觸れて行ひ、實際に後生大事とならなければいけません。私は誰が何と言って止めやうとも、この無我の境地を體得する爲暫らく暇を下さい。行って来ます」と頼みました。母は
「臼引きが終ってからでないと○○さんにしかられますぜ」…と不安そうに仰言ってましたが、その夜、淨光寺へ行って話して居ると米本留次郎樣(修徳會員で私より五歳年長にして眞面目な青年)は、
「吉本樣、若し善い處であり、有難い教であれば後で知らして下さいよ、私も行きますから」との事でした。

 十一月七日、書家であり宗教家氣取りの私は羽織袴に白足袋で井上樣へ行きました。
 御主人樣が御不在で夕方頃迄は奥樣に往生要集の本を貸して頂いたり
「何の目的でいきて居るか、生れて来たか、よく考へておいて下さい。晩になると主人が戻って來ます」との事でした。思返せば、妹が四歳の可愛い盛りにこの世を去ったのは私が九歳の頃でした。その後母と共に正信偈樣を覺え、十七歳よりは淨光寺へ出入りして信者氣取りで暮して居た私は二十一歳の今日迄
「何の目的でいきて居るか、生れて来たか?」と問われた事は一回もなかった。之程重大な問題を知らぬママで宗教を語るとは全く空恐しい事である。「自分の魂が死後何處へ行くか」と奥樣に問はれて返事も出来ず困ったものでした。
 夕方、主人安之樣が御歸りになり一時頃迄御育てを受けました。翌朝雨の中、奈良縣磯城郡の岡山榮次郎樣へ振向けられ御法話を承りました。夕方ドヤドヤと六七人もの御方が來て下さって、別室から漏れる私語に
「教員だっか」
「いヽえ教員ではないが仲々の辨當持ちや」
「骨が折れまんな、(辨當とは宗教學問か僞信心の事)の多い人は」
「あんたも一言何か言ってあげて下さい」とかの上、一人一人私の前へ來て
「一大事の後生だっせ、大事の上に一がついて居りますからな、後生難儀で來られたのか聽聞難儀で來なさったんですか、聽聞難儀でしたらもう歸りなさい。後生が氣になって來られたのでしたら相談に乗りますがね」と言って下さる御方もあり、又の一人清川清吉樣は
「たとへ大千世界にみてらん火をも過ぎ行きて、佛の御名を聞く人は、永く不退にかなふなり、とありまして火原をかきわけてでも行く熱心がなけれぱ信心が頂かれませんで」と御親切に教へて下さった。私は誰から何と言はれても、唯聞かして頂くのみでハイハイとうなづいているものヽ、又内心では
「之は言はん講、言はず講、と言ふ團體と違ふのかいな」とこの夏、高田の御坊で司教伊藤義賢先生の講習會に「類似宗教團について」との話を思出したりしては、又福本樣ともあらう御方が邪教に抱込まれる筈もなし、あれだけの資産を維持し、暖い家庭も皆信仰の徳だらう。と自問自答内心で考へて居りました。
 十一月八日の晩である。何時の間に連絡されたものか、福本樣が別室まで來られて、岡山樣にヒソヒソと
「三・四日前に私宅へ來られた姿と態度が變ってますな、これはヒョッとしたら物になるかも知れませんな」との話に私は内心で
「そうであってくれれば有難いが、信心を頂いて歸れば母を喜ばし、必ず母を手引きするものを」と考へて居りました。
 雨後のぬかるみを福本樣、岡山樣につれられて高田町の森川己之治郎樣宅へ來ました。兄嫁の實家であり十年も前から遊びに來ていた家なので求道の旅先たる氣分は起らなかったが、その奥樣は福本樣の妹にあたりこの夏は眞實信者とも知らず
「何か質問して見なさい」と偉そうに教へ手に廻り
「“因果の親”とはどんな親ですか」と問はれ佛教辭典で調べて答へた等を思出し心から流れる涙を押へつヽ謝りました。
「眞實の體驗ある御方とも知らず、濟みませんでした、私の信心は砂上樓閣でした、今後は命を懸けて求めますから宜敷御導き下さいませ」と兩手をついて泣いて詑入り奥座敷で一夜を明かし翌九日の夕方布施から御師匠樣が來て下さいました。初めて奥座敷で遇った時、冷たい顔をして、
「どんな氣持で來られましたか」
「無我の境地を體得したい爲お伺ひしました」
「後生は一大事と思ひませんか」
「表面の心が一大事と感じても奥の内心はどうもなってくれません」
「それでは御歸リになって一大事の後生と感じてから來なさい。僞札を渡しては三世通じる信心がこの世だけの事では困りませうからね、御飯も土を喰っている樣になり、夜は寢ても眠れない程後生が苦になる人のみが助かるものです」と言って去られた。
 皆が立ち去られ、私一人が眠たくて横になっていると奥樣(當時姉さんと呼んで居り現在は妻の母)が來られて
「眠らんといてや、頼むぜ、一生懸命自分の過去を振返って地獄行の種が多いか、極樂行の種が多いか、を調べて下さいよ」半分泣き乍の話に私は睡眠慾と闘ひ乍内觀を續けました。
 昨日から岡山樣が二河白道の話、藤蔓の話、達磨大師修行やらを承り、如何なる苦勞も堪える覺悟を取られて、然る後にこの“身調べ”反省だがどうしても眠い、困ったものと思ひつヽ又一夜が過ぎた。家では母が私の歸りを待っている事だらう。○樣へのもてなしやら言ひ譯に困っていられるだらうと思ひつヽ居る時、福本樣が來て下さったので
「母が臼引きがすんでから○に頼んで行かして頂きな、と言って居られました」と言へば、福本樣は
「貴男のお母樣は素直でウブな御方なので、信者の樣に思っては居ったが、その一言で眞實でない事が解りました。御自身が過去に後生が苦になった體驗があれぱ、そんな臼引がすんでからになさいとは仰言いません。先づ貴殿が入信して母を手引きなさい。それが眞實の親孝行です」と言はれてうんざりしました。
 暫く熱心に内觀していると、涙が出るので紙を出して鼻をかむと、その紙はお習字の練習用として父が買って下さった立派な紙です。これを、これで鼻をかむとは勿體ない恐多いと又懺悔の涙にくれて居りました。
 十一月十日の午後三時頃、油斷をして居ると別室で
「バケやお化や後生難儀ではない矢張リあかん」と二十七、八のよく太った男の人の聲が聞えました。私はどうしても事實後生が一大事とも感じて下さいません。この上この儘居る事は御世話下さる皆樣をだましている事になると感じた爲一應郡山へ歸らして下さいと腰を立てました。
 香久山村からも二、三人御越し下さった樣ですが、私が内觀を中止して歸る事を失望落膽、氣の毒に思ひ
「惜しい事や」と嘆じて下さったが、どうも大事がかヽらないのにこの上大事がかヽっている樣な顔をして反省を續ける事は虚僞であると考へ、二階へ上って靜かに寢て居りました。姉樣がこの法を求めて家を出られた時、私の○は自分の長男の嫁の實家に當るこの森川家の將來を案じて、邪教に入らない樣忠告に來られたそうだが、尊い尊い眞實の大法を、若し私が入信獲得すれば○にも染り、そして森川家の御主人樣にも傳はる事と姉様は内心強く私の入信を期待して居て下さった事と思ひ乍も中途で挫折した事と詫びると共に、
「今後共宜敷これに倦かず導いて下さい」と頼めば
「コゲついて居ます、私の心は貴男の魂にコゲツイテ居るで」と手を握りしめて泣いて下さった。
 福本樣は二階へ上って來て、五條にいる家内から手紙が來ましたから讀みませう。
「病人樣は柿をむくナイフを持っていられた樣に思ふから取上げて下さい。何とかしてこの尊い大法に遇はれる迄、何日かヽってでも御世話さして頂いて下さい」とルスを守る妻より夫への御親切な御聲援であり御忠告であった。若し大法に遇へなかったら失望の余り小刀で萬一の事があってはーとの御配慮でありました。
 下の座敷で靜かに反省して居りました時は、何とも考へなかったのに、中止して二階で寢て居ると、皆樣の御親切がヒシヒシと身に沁みて感じられ濁惡なこの世に於て初めて知る菩薩樣の御心を何と言ふ尊い御方等であらうか。
 明くれば十一日、御師匠樣等を關急の驛へ見送り、福本樣を省線高田驛で別れる時、今回恩師は一念に遇はされなかった事は廣大な尊い御慈悲ですよと仰言った、高田女學校の當麻周二先生にも信者顔して居ったが體驗のない、學説だけの事でありまして恐多い、勿體ない事と謹んで御詑びに行きました。

 夕方郡山へ歸り、翌日からは眞面目に肥料販賣に集金に立働き、夜は書道の練習に暮らしていると、井上安之樣から往生要集の本と御手紙が來ました。その一節に、
「自からはげみ、自から励んで常住を求めよ」とありまして私の求道心を振起さしむる御言葉でした。

 十日頃よりは日一日と又親の御恩も忘れ勝になる心の移りに驚立ち、十一月二十一日夜、遺書を殘して家を出ました。半丁程行って振返り、
「御先祖樣行って參ります。吉本家の一員として今日迄よく養って下さいました。死を賭して永遠の生命を求めて來ます。永い間有難うございました」 止めどもなく流れる涙を押え乍ら夜の道を電車の驛へ急ぎ高田へ向って走りました。
 何かの用事で來合していられた福本樣に手引きを受けていると、十一時頃岡山樣が電話で連絡下さった由にて來て下さいまして(腹痛を押へて)御熱心に開悟して下さいました。
 翌朝福本樣が布施へ行って御師匠樣と御相談下さると「つれて來い」との話らしく、姉樣と岡山樣につれられて諦觀庵へ行きました。二十二日の夕方から二十七日の夕方迄反省内觀の徹底を期して御導き下さいました。
 十六、七歳の頃、農園の柿収獲期にポインター種の犬をリヤカー(荷車)の先引きに使ひ、上手に引かないと言ってはなぐりつけた事、犬は私の顔を悲しげに、うらめしげに眺めつつ恐れおのヽいて泣いていた哀れな態度を思ひ出し、許して下さいと犬に對して懺悔の心持が湧いて來ました。惡い主人、無慈悲な親方とうらんでいたであらう。
 親の金を盗んで書道の碑法帖を買並べ、人樣から師と言はれ、習字の先生と呼ばれる爲、どれだけ外面を飾り立てヽいた事であらう。商賣が達者だと言はれる事實が如何に上手に人樣をだまして金儲けをした事だらう。大恩ある親の恩を恩とも思はず、孝行者らしい顔をして、自己を買かぶり自分をいつはり、何と言ふ空恐しい心の持主であらう。
 七、八歳の物心ついた頃から今迄の自分を親にはどうであったか、兄弟には、友達には、學校の先生には、どうか善い事が多かったか? 地獄行の種が多かったか? 調べれば調べる程淺間しい罪惡のかたまりでした。
 半月前高田で反省させて頂いた時、初めて知った“光明の徳”を記念に泣いて鼻をかんだ紙屑をせめてもの思出にと大切に懺悔の遺物として保管して置いたのに、僅か半月間位で既に忘れ果てヽ自我を立て、己を買かぶって居た私は今度こそは何としてでも信心を得度く、熱心と念力の總てを固めて命懸けで反省を續けました。 二十四日頃、中途で「誰が助かっても私一人は地獄行だ」と感じたかと思ふと、噫々私は助かった
「地獄行だ」と知ったんだもの、嗚々嬉しい、母にも此の有難い大法を傳へよう。高田から歸った後へ
「死んで知識はましまさず、一日も早く求められよ」と御手紙下さった福本樣の奥樣に厚く御禮に行きましょうと、二階の部屋の角で一人嬉しがって居ると、姉さんが心配さうな顔をして
「又油斷をして呉れましたな」不安そうな態度に襟を正して、今の氣持を打明けると、
「それは恐しい計ひです。心の中の惡魔がそうした邪魔をするものです。一刻一秒を惜しんで熱心に身調べて下さい。頼みますで。頼みますで。精神一到何事か成らざらんやからな」
 朝が來て晩になり、又夜が明けて晝になり、晩になり、何日間御世話になって居るのかも忘れて、二河白道の旅人となって三定死への境地へと、眞實一路、汝自身を知れ、先づ自からを知る内觀一筋で一向一心に歩みつヾけました。しかし駄目でした。佛縁未だし。肝心の無情を感じてくれません。今死んだらこの魂は此恐しい惡業を抱えて落ちて行かねばならぬのに、と思ひ、心の表面では考へもしますが内心の奥から驚きが立ちません。困ったものだ
「何とかして後生大事と感じてくれ、早く目覺めてくれないと大法には遇えないのだ」と自分の魂に呼びかけ頼み叫び續けました。でも駄目でした。私は諦らめて二階から降りやうとすると、皆樣が登って來て色々と氣を取り直して反省を繰返し續ける樣に勵まし奨めて下さいましたが無駄でした。
 二十八日 久し振で風呂へ入り、夜中高田迄歸りました。
 二十七日夕刻からは淋しい悲しい思ひのまヽ、皆樣にも迷惑をかけた、濟まん事だと恐縮して居るのに、御世話下さった御方等は
「御蔭樣でよい御法縁に遇はして頂けました。如何にむつかしいものか、よくよくの御因縁がなけれぱ人間の熱心や眞劍位では此の大法に遇へないと言ふ尊い事を知らされました。有難うござゐました」と反對に禮を言はれて愈々詫入ると共に、美しいこの人等と知り遇へた事だけでも、地上に珍らしい尊い人達と知り合ったのみでも大きな収穫であると自分を慰めて居りました。
 高田では大きな富有柿とミカン水を御馳走になり、三十日空しく郡山へ歸りました。その後商用で一日中の仕事を半日に片づけて自轉車を筒井か平端に預けて電車で大福や、高田へ三日に一回は必ず御伺ひしては御法の話を承り、時には岡山樣のお宅で泊めて頂き、夜を徹して御縁に遇はして頂いたものでした。

 草可博文堂樣と言ふ筆屋樣の二階で習字を教へて居りますと、願正寺樣の娘樣が二人御越し下さって、その御母堂樣が迎へに來られて御縁が結ばれ、願正寺樣でも時々夜明の鷄鳴を聞いて急いで歸った事も何回かありました。

 願正寺樣(寺本清祐先生)は
「私は下市の有力な御方の宅へその奥樣の御招きで御法話に伺ひましたら先方の御主人樣は
『地獄や極樂は見て歸った人もなし、戒めの爲に假設したオドカシ話の樣に思ひます。惡い事さへしなければ、決して惡い處へは行かないと信じますがどうでしょう』と仰言いますので私は(願正寺樣)
『それは貴男のみでなく、誰もがその程度でしょう。しかし人間として誰も早く死にたい、病氣になりたい、貧乏になりたいと望んで居る人はありません。しかるに一歳二歳で死ぬ人もあり、八十迄も生る人もあり、幼少より病床に苦しみ、又不具の人もあります。同じ人はありません。死んだら火の消えた樣なものだとか、又は人間死んだら皆同じ人間だと言ふのであれば、現在の人間總てが同じで無ければ話が合ひません。一人として同一の人が居ないのは、皆前世からの因縁に依るものたる證據です。夏生まれて夏死ぬセミは、春も秋もあるんですが、知らないだけです。一息先が未來であり一呼吸一秒間後も後生です。有るんですが知らないたげで、現在の自己を知る事に依りその因たりし過去を知り、又未來への原因となるんですから、地獄行きの種が多いか、極樂行きの因が多いかを知る事に依り未來後生が掌を見るより明白に判るのです。せめて拾日間でも過去の生活を御調べ下さってから、惡い事さへせねば惡い所へは行かないと仰言って下さい』と言ひますと先方様は
『輕率でした全くお説の通りです、よく自己を反省さして頂きませう』と仰言って下さいました」との事で私は布施諦觀庵に對して心から頼る氣持になり、あの人等の念佛でなければ私は助からぬとの信念を得ました。
 十二月三十一日、磯城郡に母の叔母たる姫廻マス樣と言ふ老人が法喜びと承って居たので行きましたが、之もイツノマニヤラ安心と言ふものだった。善知識も無く、何時が宿善やら、光明とはどんなんやら知らず、唯聞覺えた話だけの信心で失望して歸る時、道畑まで追すがって來て「伊信さん、眞實信心頂いたら私をも濟度しに歸って下されや」と大きな聲で叫ばれた事を今も懐しく思ひ出す。           合掌

 お正月ではあるし、高田へ行けば岡山樣も來て下さって夜を日についで又御法話でした。私が便所へ立った後で、姉さんが岡山樣に
「見込みありますか」と尋ねられると
「大丈夫です、今度こそは」との話聲を耳にしつヽ私自身も何とかしてと考へては居りました。三日の朝郡山へ歸り昭和十二年一月三日夕方大阪市住吉區の門窪與三郎先生へ遊びに行き、夕飯を頂き、歸途フラフラと井上安之樣の御宅へ立寄りますと、井上様曰く、
「貴男はもう助かりません、お気毒乍ら最も聞いてはならなぬ事を既に聞いてあり、毒を呑んである上に實行まで伴って居るのですから、全くどうにもなりません、もう貴男を手引する方法はありませぬ。若し大台ヶ原の山の頂上か三笠山の奥ででも、たとへ五日でも内觀し、モノノ言はない岩にモノを言はして聞いて歸ればヒョッとすると又因縁があるかも知れない」冷水を浴せかけられた樣な思ひで泣いて誓ひました。
「今度と言ふ今度は自分にだまされなさんなよ」電車は既になく、汽車もないのでトボトボ浪速區の東本伯母樣宅で一夜を明かし、四日郡山へ歸り、夕方、財布を書齋の本箱中に置き、遺書もかヽず母に、
「お母さんは私の身体が可愛いのですか、魂が可愛いんですか」
「そりゃ魂さ」
「そんなら此の水呑みなはれ」水盃、イルミガーターの鹽水で洗眼をしてあげて之が最後の御奉公と思へぱ胸が熱くなり、深い話は何もせず、そのママ西へ西へ、生駒山脈の松尾山頂上に大穴のある事を目的に走りました。

 三年程前、五月八日頃山遊びに來た時覺えた大穴、昔マンガン試掘したと言ふ大きな穴が(地方では之を西山の穴と言) あった事を思出し、夕闇迫る山頂であちらこちらとさぐりましたが見つからず、斷念して山を降り松尾寺で問ひますと、寺男が地面に略圖を書いて教へて下さいましたので、再び眞暗い山道を登りましたが既に遅く、月のない夜の山はしんしんと更けて松風の聲、松籟の音が娑婆の思出を知らして來る位です。
 私の心は穴が目的でなく、獨り開悟、菩提樹下の釋尊の御足跡を慕ふて進むのが目的だから、枯れた叢の中に法座を決めて坐り込みました。
 坐るとすぐに泣けて來て、泣いたのが信心でない、泣いて居る時間も惜しい、調べるんだ、油斷なく自身の過去を見つめるのだ、と心に鞭打ち勵まし一夜は空しく明け過ぎました。
 早朝再び松尾山を訪れ頭を地面へつけるばかりに頼みましたら、うるさそうにして居られたが、私の態度が眞劍すぎたのか道案内して下され穴の前で別れました。
 中へ入って一生懸命調べました。今此の頭上の岩が何かのハズミでバサッと落ちたら私の命はないのだ。魂よ、無常だぞ。取つめてくれ、頼むぞ、と己が心に呼びかけては又氣を取り直して反省を繰り返しました。┏の字なりになって居る穴の奥では、朝が來て、晩が來て、又朝が訪れるのは正面のかすかな明るみで知るのみです。夜中居眠りして居ると、バササッとコウモリの樣な鳥のハバタキで目を覺まし、之は吉本家の先祖樣がコウモリの姿を借りて、しっかり内省せよ、眠るな、との御忠告だと思ひ、この不思議な現象をも佛樣の催促と氣を取り直して調べ續けました。
 先づ母の事でした。小さい時から苦勞を掛けて居た事を次から次へと思出す、總てが大恩に抱かれ乍ら忘恩の大罪を犯して居た事ばかりでした。母は裁縫の師匠であり、教へ手たる体驗があったので私の學生時代は必ず先生の宅へ自分のヘソクリを削って盆、正月には届けるのでした。私は或る正義感からその親心を嫌ひ、斷っては居ましたが、中學一年、二年の生意氣盛りになると田舎者でみすぼらしい、言葉の拙い母が主任教師の自宅へ盆、正月の御禮。私は嫌で嫌で恥しかった。親の慈悲を受取らず、嗚呼勿体ない、勿体ない。
 親の財布から金を盗んで貯金して、莫大な金を親に自慢らしく見せびらかして、親が
「わしの財布から盗んで貯金したのでは何にもならへん」としかられた事、等思出る事總てが罪です。今尚御佛樣の財布から盗んで財産が殖えたと喜んで居るの親泣かせの張本人は心の中の賊、敵の仕業と知らされ乍らその恐しい惡業に引づられて今日も泣くなく罪を犯すあはれな大惡逆人は私でした。

 七日の朝、大和小泉驛前の友人に此の衣類でも渡して一圓也を拝借し磯城郡の岡山樣へ行く積りで穴を出ました。
 山を降ようとした處へ村の人々四五人が、私を探出す爲來て居られ、バッタリ出遇って、私は二河白道の後から呼止める惡い群獣の類を思出してギョッとし
「來るか?」と杖を振上げましたが先方は多勢、私は一人その上何も喰べてないので足も少しふらついて居る事とてすぐ思返し、
「どうぞ見逃しておくれ、頼みます、頼みます」と今度は手を合はして頼みました。
「伊信さん歸ってあげておくれ、お母さんが死にかけて居られますぜ、歸ってあげておくれ」
 私は心に誓ひました。
「ヨーシ此の心を外すものか、今暫くは歸るけれど、此の求道心は忘れるものか」と
 弟が持って來て下さったオカユをたべて家へ歸ると、握り飯の山を築いて大仕度、今少しで鐘や太鼓で大和中を探出す準備との事で、私も驚いて、
「皆樣御心配かけました、とうもすみません」と謝って座敷へ通り、お佛檀へ御禮をして寝ました。子供の頃、私の子守であったサキヱ姉さんが枕元へ見舞に來て
「心配したで、心配しましたぞ」と泣いて居られた。私は
「御開山樣は御開山樣の御苦勞を御跡慕ふた者のみが救はれるんだからな」と言へぱ、姉樣は私の無事で居た事を喜び、又世間の噂では神經衰弱で氣が變になって居ると聞いたのに、眞面目で確かそうだし、唯嬉しくて嬉しくてと泣いては又私の御法話を有難そうに聞くのでした。
 法隆寺管長樣の毎年夏百日を參り續けて居られる信者樣が見舞に來て私に御親切な御心で
「その心、その氣、お見抜の、お目的の本願だっせ」と大きな声で教へて下さって、内心私は
「ハハン此の人も氣の毒に、そんな輕い事では話だけですわい、墨繪の櫻ですわい」と思って居りますが、表面は
「有難う御座います。御苦勞樣です」と口先だけの御禮を言って歸って頂きました。その夜○樣から、
「頼むから佛法は止めておくれ、お寺へなら毎日でも參ってもよいが、そのややこしい處へは諦らめておくれ、今度といふ今度は、私も二日二晩泣き暮らした。こんな悲しい目になったのは生れて始めてや」と泣いて頼まれると私も情に引かされて
「かんにしておくれ、もう何處へも行かへん。もう行きません」と泣いて謝りました。本心からそう改めました。
 その朝、山の上で心に誓った求道の決心も、○樣の涙にはもろく打ひしがれて本心から改める可く謝りました。
 何と言ふ後生知らずでせう。我が身知らずであったのでせう。心はコロコロで朝の求道心が、晩には既に亡んで居りました。
 九日友人入營の歡送式に司會役を務め氣違ひの誤解を解く爲に努めましたが、役場でも私に
「餘り勉強し過ぎなさんなよ、お○さんが心配されますからね」と當時村會議員を永年續けた○の御蔭で役場の人々もよく知って居て忠告して下さるのでした。
 十五日、淨光寺へ例年の御開山命日で參らして頂くと、新發志、石田民夫樣(龍大専門部卒業、今は故人)曰く、
「伊信さん、そこから眞劍に求めなされよ、三定死の境地と言ってね、行くも死せん、戻るも死せん、止るも亦死なんとの境地に突進むのにはそこからや」と、老院主樣横から、
「こら馬鹿な事を云ふな、親が心配するがな」としかられた。内心では私は
「若い人は法に眞面目だね、老人は世間態のみが大事なんだ、學生上りでも偉い事仰言る。さすが専門部卒業だけはある」と感心して居りましたら又心の奥から高上りするな、高上りするな、と叫ぱれた樣に感じた。
 後で母に承った話だが、正月六日の夜は、○○が書齋のお前の財布を見つけ、ナキ續けられて氣違ひになられへんかいなと心配しました。寝靜まりはったと思ったら又大聲で
「今頃は死んでるわい、何處かの山で死んでるわ、可愛想に、可愛想にな」とナキ叫ばれるので恐しかったよ、との事でした。
「淨光寺で又そそのかされた」となると後のタタリを恐れて老院主は、新發志をしかられたのも無理はない。
 扨て月日は夢の如くに過ぎて、二月十七日には五條の長男、福本義一樣が五十年間の定散信者たりし中川松次郎樣と共に御入信され、私は三月末、何とかして家を出たいと考へ込みました。多くの宗教関係の本を高田へ預け、本箱は書道の參考書のみにして毎日晝は肥料商を手傳ひ、夜は書道の研究を續け、表面はすっかり求道を斷念した樣に見せかけて居ても、岡山樣へ、願正寺樣へ○に秘して通ひ續けました。
 草可博文堂樣は筆を賣る爲、福井縣の師範學校で新國定習字手本の教授法たる講習會を開かれるとして、私も講師の一人となり、縣下の教員を集めて、とのプランを假設して印刷物を造り、三月二十三日出發する豫定を立てました。
 何も御存じなく○○樣はテッキリ眞實と思込み、その印刷物を人々に見せぴらかしては息子の書家たるのを自慢して喜んで居られました。
 何とかして家を出たい、この念願を達する爲に草可樣には福井市からの土産物を持歸って頂く樣手配して三月二十三日を待って居りました。
 愈々二十日の夜高田で、福本樣曰く
「一週間程で大法に遇って無事に歸らうと云ふ樣な心の程度ではいけません。金鵄勲章を慾しさに戰に臨んだのでは立派な手柄は出來ない樣に、命を投捨てヽ懸らねば本當に遇へません。特に貴男の場合は御○○樣から、『此の子にどうぞ大法を聞かしてあげて下さい。萬一死んでも満足です。』との御話がなければ相談に乗れません。實は十一月末頃も御宅の御○○樣が警察へ訴へるとかの話を聞きましたが、私は一命捧げる覺悟をその時は決めましたが、成可く摩擦を避ける可く以前に了解を得て置きませんと、尊い尊い此の大法が何か人を誘惑する道の樣に誤解されると勿體ないですからね。特に資産家の息子樣とあれば餘程注意しませんとね」噫々永い間の計画も水の泡
 相談一決、森川己之治郎樣とその父善吉ぢいさんとが態々郡山へ來て、總てを打明け○樣に頼んで下さいました。○は、
「御苦勞樣です。つれて行って下さい、その代りに私は警察へ行って聞いて頂きます」善吉ぢいさんには、
「年の二十二歳位で後生大事と道を求めての珍らしい事でもあり、布施の諦觀庵も仲々尊い有難い處で、私も以前聞かして頂きましたが、結構な御教へですから、是非暫く御暇を與へて頂けませんやろか」と御親切に頼んで下さったが、○の警察行と承って、恐縮して御歸りになリました。噫々萬事休す。
 四月十四日 門窪先生と櫻の花を眺めつヽ 、先生曰く、
「轉迷開悟、安心立命への爲に命を捧げて、との御志は尊く有難いが、五日や十日で解決できませんからね、一日も早く別家の上、世帶主となってからでも遅くはないでせう」
「それ迄命があればよろしいが」
「と云はれる、とは思ひましたが、兎に角大問題ですから人間一生を通じて捧げて勵むべき大仕事ですから、早く世帶主になって、それから出直しなされよ」
 五月一日婚約が整ひ、二十三日森川己之治郎樣の長女キヌ子が私の妻として結婚式が擧行され、八月三十日大阪日本橋の森川出張所へ、レザー別珍商の手傳ひに行く事となり。
 九月一日漸く○樣と別の釜の飯を喰べる樣になれました。
 妻は三月三十日五條に於て大法に遇はして頂いてあったので、夜分無意識に南無阿彌陀佛々々々々々々と眠って居り乍ら御稱名を口走って居ります。傍で私は、
「眞實信心の御稱名は有難いが私の念佛は伊達か杖か、空念佛だ早く一日も早く御法に遇はして頂き度いものだ、昨年十一月末、皆様が奨めて下さった時何故中止したのか」 と恨めしげに、己が心のみぢめさを抱きしめては人知れず夜具を咬みしめて泣き悲しんだものでした。毎度の事乍ら幾夜か迫りくる死の恐怖に追はれ、罪惡感に襲はれつヽ泣いて泣いて泣き忍んだものでした。
 十月中旬、福本樣が(妻の伯父さん)店へ來られて、曰く、
「あんたとこの御○○さんが御理解無ければ布施は受付けませんぜ、人間は老少不定ですから萬一の事があると他の人々にも氣毒ですからね」
「若し途中で死んだら屍を長持で運び、此處へ寝かして後、電報で、伊信キトクと郡山へ知らして頂ければよろしいでせう」

 十一月八日、しとしと雨の降る夕方でした、高田へ行き養父樣に、
「永らく御世話様になりました。キヌ子の事は宜敷御願ひします」永遠への別れを告げて、磯城郡の岡山樣へ急ぎました。夜の中に吉野郡大淀町、北川源一郎樣へ落付き、翌九日夕方、愈〃迷ひの墓場尊い法座に自己求明へと               南無阿彌陀佛                        合掌
 瀧の音が、トウトウと靜かに聞え、その一滴の水が海へ海へ、そうして再び因縁があって此の小川の瀧となる水は? 此の私の魂も霊魂は滅にあらず、不滅にあらず永遠に流轉輪廻するものとか、今此の世に於て、現に今此の大法に遇へなかったら何れの時にか救はれるべきや。
 遠く二千六百年の昔、大聖釋尊よリ以來、一器の水を一器に移し、血脈相承の佛法が未生の私に、噫々此の道、此の法、固い決心と勇猛精進を誓って法座につきました。
 一心一向になって、さらに餘のかたへ心をふらず、と反省内觀身調べへ善知識の御言葉にハイハイと信順して進みました。途中で又飽いて止めやうかと思ひましたが、何回も氣を取り直し調べれば調べる程、極樂行の種らしい善根は見当りません。
 北川オナミ樣、喜多源平樣も岡山樣や福本樣等が時々御越し下さって、
「油斷しなさんなよ、大事だっせ、一心になって調べて下されよ、油斷されるなよ」と導かれ三千世界の皆が助かっても私一人は落ちねばならぬと思ひつめ私は前のめりにブッ倒れました。そこからは、
 ○○○○○○○
 ○○○○○○○○
 ○○○○○○○○ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
後生の夜明け、轉迷開悟、噫々何と言ふ嬉しい事だらう。もう何時死んでもよい。
 御師匠樣、岡山樣、井上樣、福本樣、母上樣、永い間御苦勞かけました。疊の上を轉々轉ぴ轉びの嬉し泣き。此の喜び。此の感激を以ってせめてもの御禮に大法の流布徹底に邁進を誓ひました。
 お○○さんが止めて下さらなかったら尊い大法を輕々しくもて遊んで居た事だらう。お○○さんが居て下さった御蔭樣眞劍な大事がかかったのだ有難う。有難う。北の方遙かに伏拝み、○にも泣いて御禮言ひました。
 南無阿彌陀佛
 寝ても眠れず(四日間眠ってないのに)終夜井上樣の御法縁に遇はして頂き翌朝母を高田へ送り、午後上の太子へ廻り、聖徳大子の御璽前に懐しい、懐しい感惰の溢るヽまヽ、泣いて泣いて泣き倒れて居りました。ホッと氣附けば野良歸りの村人等が十名程不思議想に、珍らしそうに大聲で泣いて居る私の姿を見て居られました。足が一尺程、空氣の上を歩いて居る樣で、何を見ても、考へても、嬉しくて、嬉しくて歓喜の光に酔って居りました。
 釋迦往來八十遍、嗚々御手間掛りでした。
 皆々樣御苦勞かけました、有難う御座います。有難う御座います。
  涙   南無阿彌陀佛                      合掌

信後
 昭和十二年十一月十九日、養父森川己之治郎樣と願正寺へ參詣して翌朝迄御育てを受け、父は宿善あって求法へ發心され、二十一日井上樣へ行き夕方布施へ、そうして二十五日芽出度く御入信下さいました。月末より秋津村で中川義雄樣が道を求められ、十二月中頃高田の森川宅で宿善開發、次から次へ新佛樣が殖えて行きました。私の精神生活の内容は何時の間にか報恩感謝も薄らぎ、腐敗堕落へ急いで居たのにかヽはらず、當時は
「一念發起すれば故籍は御淨土へ。もう落ちたくても落ちられん身にされました。若し疑へば佛罰が當る」と信じられて居りました。又私自身も、確信して居りました。その一例として福本義一樣が、
「私の信心はどうも頼りないから後生が心配や、今一度やり直しさして頂く」と言って、父が内觀して居られる頃、布施で坐り直して半日程すると身体が苦しくなり、クタクタになって弱られた。それを介抱して居られた母(義一樣の叔母)は
「勿体ない、勿体ない、恐しい事や疑はんときや、普通の病氣ではあんなに苦しまぬものや、本願を疑ふから佛罰や」との事であった。
 又、中田秀雄樣が御家庭で、その母に
「布施の尊い御法座へ行くなと言はんといてや、餘り止めると後へ戻るで、戻ったら困るやろが」と言って居るそうだが仲々戻るものか、又戻れるものですかいな、定散と違ふ、眞實だものと皆で噂をして居た程、一念の尊さを信ずると共に、三世通じての本願だ、本願に打勝つ程の惡がないのだからとも皆で思って居りましたが間違ひでした。
 昭和十四年三月から、弟伊左ちゃんも、今阪常春樣も、森川淨樣も入信して四月には兄嫁光江姉さんも十八日には母上樣も御遇佛、と實に嬉しい事でした。
 光江姉さんの生活態度の變化に依り、○も驚き布施の御教へは何と言ふ尊い有難い大法であらう。私は邪教だと思ひ込み、知らぬ事とは言ひ乍ら勿体ない事を犯した、恐多い事だと廻心懺悔求道の熱意に燃えて歩まれました。村でも念佛の家として一家和樂の温みに、羨望の的でした。(昨今ではそうでもありませんが)

 眞宗の發展を阻害するもの「一念邪義」我が諦觀庵の恩師駒谷諦信師は此の一念邪義を恐れられ、信後十三年も泣暮された御体驗で、私をして危く御助け下さいました。噫々思へば思ふ程、偲べば偲ぶ程、山より高き、海より深き師の恩を、今は亡き恩師の大愛を懐しく慕ひつヽ今その一端を拙い筆に留めませう。
 忘恩の大罪を深謝しつヽ      合掌

 社會事業家たる陸軍中尉中川義雄樣の御入信に依り秋津村を初め、各地で布施諦觀庵の存在は實に有名になった、そして我も吾もと今回も三人、今度も五人と、壱ヶ月に十數人ものおぴただしい激増に御師匠樣の顔色が惡くなり、心配げな、御不安の樣に察せられました。之が間違ひの元でした。
 昭和十四年六月末、布施へ御伺ひしますと、恩師が私に、
「私の師匠西本諦觀師が御存命中に老婆の或る同行がね
『御師匠樣は澤山御入信の信者を育てられましたが、あれは皆淨土へ參れるんですか』と問はれますと、西本恩師の答へは
『いヽや、縁つけたヾけや、報土往生の出來る人は百人中で一人か二人位かも知れぬ三人もあれば有難い事や、殘りの九十七人は、佛縁を結んだだけですね』と仰言ったんですが、吉本さん、貴男はその三人の方だと思ひますか、九十七人の中の一人だと思ひますか?」 私はうろたへました。返事に困りました。
 三人の方と言へば眞實の精神生活の内容が出來てないし、又九十七人の方とすれぱ、そのまヽ死んで行けますか? と切込まれるだらうし、さて困った、顔を赤らめて、うろたへて居る私へ、御師匠樣は蓮如上人樣の御文章第二帖目最初のオサラヒ章を引用され、
「さりながらそのまま打すて候へば、信心も失せ候べし。とありますが一念に遇へば落ちたくても落ちられん身にされたのなら、この信心もうせ候べしの御言葉が不要ですね。尚祖師も教行信證に、
『若しまたこのたび、疑綱に覆蔽せられなば更りて復曠劫を逕歴せむ。』と仰言って居りますが、どう味合へますか」
 私は驚きました。最近恩師の顔色の芳しくない理由も解けました。昨今粗製乱造たる俄か信者の信後相續の姿が、頭痛の種だった事がはっきりしました。私は不審そうに
「一念の喜びは一劫に一度びと言って永久に來ないので、後々續かないのでせうね」と問へば
「朝飯を喰べたら晝飯も夕食も不用なのでせうか? 一念の喜びは入學式とすれば入門の翌日からは内觀もせず、反省もせずとの姿でよいものですか? 法を聞く身にして頂いた入門式を卒業式と間違って居りませんか?
 習字なれば筆の持ち方、姿勢や手本の見方等練習の基本を教へて頂いたのみで、極意皆傳と間違っては居ないですか?」

私「一念に遇っても信心のみぞをさらへなかったら地獄へ落ちませうか」
恩師「おさらひの御文章を何回も御拝讀下さい、蓮如上人樣が御親切に
 『これ程早目に見えてあだなる人間界の老少不足のさかひと知り乍、
 只今三途八難に沈まん事をば露散り程も心に掛けず、いたずらにあかし
 暮らすは』とあるのは誰の事ですか、誰の事でせうか」更に御丁寧に、
 「念々稱名常懺悔とはどんな姿でせう? 盲目人が一念の提灯を自慢
 そうに振りかざして居ても、火の消えてる提灯になって居りませんか?
 折角、我が身の眞實の姿を見せて頂いたのに見失って居りませんか?
 自分に聽くと言ふ尊い耳をつけて頂いたのに、昨今の生活はどうですか?」
 噫々、何と言ふ慈悲深い御問ひであらう。更に恩師は、
 「私への返事は不要です。自分の出て行く魂に此の返事をしてあげて下さい」と仰言ひました。

 既に御老令の御事とて私は壱人で恩師に代って出かけました。下市へ、五條へ、高田へと、この大問題の返事を伺ひ、恩師へ傳へる可く走りました。中には簡単に何げなくお答になる人もあったが、眞劍後生に大事一大事をかけ、返事に困り、
「どないしませうぞなあ」と五体投げて嘆き驚かれた御方が僅か三人で其の他、話だけは成程と分って、姿や態度に寫さない人が約十人程もありました。總勢百數十人の中でこれはこれはと思ひましたが、實は私もその十人の中に數へられる位であって、こんな事ではいけない。これでは困ると思ひつヽ、世話役を手傳ふ位の事でした。(今もその程度で恥しい事です)
 初め高田へ御世話になって歸る途で福本樣は
「今回一念に遇はされなかった事は恩師の尊い御慈悲ですよ」と仰言ったのにその頃は、御法の大切さも判らず輕々しく考へて居りましたが、今更の樣に一念發起の信心を高く掲げて私を何回も空しく歸らしめて入念に御手引下さった御恩をしみじみと味合ひ感謝さして頂いて居ります。
 人はよく
「一念は凡夫の計ふ可き點ではありません」と神秘的に考へたがるが、凡夫では一念のみではなく、求道者が法座にお座りになる事すらも、人間の計ひや、仕事ではなく御本人樣にかヽり、おほせの親樣の御計ひである。
 型に捉はれ形式に走り十日や二十日で、一念を凡夫の同情や又は功を急ぐ爲、法賣して(物質的お禮を望まずとも名利を賣る爲)指導者顔したいのが、私等の悲しい病である。實に悲しい事だ。せめて五年、十年、否一生を費して求めても「之でよい」と言ふ限界は無いのである。
 然るに人間は悲しい習性で「もうすぐ一念に遇へる」と望めなくしては仲々反省しないものであって、蓮如上人の「宿善の有無の根機を相計って法を沙汰すべし」の御心が今更の樣に有難い極みだ。
「他の藝術や學問でも此の世の事でさへもコレでよいとの限りが無いのに永遠の生命を救ふ宗教に
『もう救はれた、大丈夫だ』と一服する事は、又一服さす事は實に馬鹿げて居る」と言ひ、尚又頭で一應考へて居る知識人でも腰掛けたいのが自性であるから
「ヤレヤレもう濟んだ」と一服したいのである。
「腰掛けてはいけない、一念邪義は駄目だ」と叫んで居る私も腰掛けて居るのだから情けない悲しい極みだ。
 扨て、師は針の如く、弟子糸の如し、との話について來られた三人へは、御師匠樣の御態度が、初めての病人樣(求道者)を育てるのと、殆んど同じ方法で、内觀反省の一路でした。
 一度大法に遇へば永久に後へは戻れるものではない、と信じて居たが既に房って居る自分の姿を氣づかされ、落ちたくても落ちられぬ、心も身も南無阿彌陀佛の功徳廣大にして染まらぬ所なし、とは聞かされて居たが、入信の日から喜は何時の間にか薄らぎ、昭和拾壱年十一月迄は不平不滿愚痴三昧の私が、十二年十二月頃迄は報恩、憾謝、法悦の生活でした。ヤレヤレ入信したと思った日から、日一日、刻一刻、不法解怠に流れ、又元の不平、不滿、愚痴三昧の魂に戻って居りました。この恐しい無法解怠の自己たるを知らされ、一念邪義の迷信から覺されました。

 三田源七同行が信者廻りに歩まれて
「コレデと言ふものが出來たら永の御いとまと思ひなされよ」と聞かされたさうなとか、一體どんな氣持で聞いて居たのであらうか。後から私の質問を縁として布施へ來られた御法の兄弟衆へ御師匠樣は、
「私は御法に遇はして頂いてから十三年の永い間惱み苦しみ悶えました。信後相續とは火鉢を圍んで酒、飯、茶のみで別れるのは佛法の本意でないと蓮如樣も仰言ってある。
 此頃皆様はどうでせうか
 私は法に遇ふた、と決め込んで片付けて居りはしませんか」
 眞實一路、恩師の御生活は實に宗教一本であった。
 物價が如何に高くなっても、維持費も上げて頂こうとも言はれないし、他に内職でもして別収入の途を開こうともされなかった。そして清貧赤貧に甘んじて、一枚の紙も大切に大切に使はれたものだった。
 今は既に岡山樣も、御師匠樣も、井上樣も、願正寺樣も此の世の御人ではない。全く夢の樣だ、然し眞實の御教へは、此の四人の功績は、遺弟の法悦に依って永遠不滅、燦として輝き渡る事であらう。
 先輩井上安之様に
「闇をせねば生きて行かれませんし、罪を犯かしたくありませんし、毎日この闇問題を廻って頭を痛めて居ります。念佛行者として如何に生きるべきでせうか」と問ふた事についてそのお答へに
「誰々は闇取引をして居るがあれは國賊だ、非國民だと怒る人や、又は日本中に闇をせず生きて居る者があるか、凡夫だよ、といって平氣で犯して世を乱して居る人も多くあるが皆間違であります。頭をうなだれ闇をせねば生きて居られない、己が罪惡に目覺め、詫び懺悔し、今日一日不善から遠ざからうと、つヽましく生きながら、この罪惡者にも今日一日無事に生かされて居る不思議さ、尊さ有難さに感謝して居る人は、親鸞聖人の御跡なのです。
 闇さへなければ、統制法規さえなければ貴男は大地に恥じない生活が出來ませうか? その自信がありませうか? 九牛の一毛にも過ぎない事をのみ取り上げ、爲政者をのろひ、世を怨みますのは、自分を善人顔にしたいのではないでせうか。自己の罪惡を忘却して統制法規さへなければ、自分は善人だと思ひ買ひかぶって居る名譽慾が自分をいぢめるのであって死ぬまで獄窓につながれても當然な自己であると、地獄は一定すみかぞかしの自覺のみが現在苦惱から救はれる近道です」と仰言られたものである。亡くなられる最後のお言葉に
「此の世の事は何一つあてたよりになるものはありません、お念佛、大法のみが眞實です、佛法樣の御爲御活躍下さい、それのみが私の御願ひです、御願ひです。」と言って死んで行かれました。
            涙                               合掌

 最後に、恩師はよく仰言った。
 「精神の病氣(迷ひ)を皆様の御蔭で(家庭の人や善知識樣)入院、養生、服藥(法座で内觀)さして頂き、六字の妙藥で全快(入信法悦)さして頂いたのに、又候、不養生の爲(不法解怠)恐しい病氣に犯され(迷ひ込み)慾しい惜しいと苦しみ乍治った積り、全快の積り、にだまされて藥を呑もうとも養生しやうとも思はないのは誰であらう?
 信心のみぞをさらへると言ふ事は藥の効能を聞き直し、覺えなほすのではなくして藥を呑む事や、藥を呑むとは自分の實際に目覺める事であって凡夫を凡夫と知る事や、自己の眞實を知る者のみが佛樣の御慈悲を知るんですー」と
                                              合掌
 今も尚ほあの世から勵めと鞭たれて居る樣に思はれるが
     明日ありと思ふ心にだまされて
        今日も空しく過すわれかな
                  南無阿彌陀佛  々々々々々々
信前信後                                        終り

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