昭和拾八年七月三日発行
『法味道シルベ』 第壱巻
吉本伊信著
信保書院
一、地獄極楽の有無
死んで生き返った人もなし、有るとか無いとか言っても、共に不明の事、不解の話と片附けて忘れ去り度いのが私の心ですが、一体、人間死ねば何處へ行くのであらうかと、眞剣に眞面目に求め尋ねるのと、少しも心に止めないのとで、人間としての偉大さが決まる分水嶺かもしれない。
釋尊を始め古来幾多の高僧聖人は、此の死についての解決を求め、後生知りたさに道をたどり、安心立命、大悟徹底された事実は誰もよく知って居り乍、自分自身の後生について眞面目に大事をかける人は少い。
眞宗七高僧の一人で恵心僧都(源信和尚)は其の著「往生要集」にはっきり、地獄、極楽の有様を詳しく教へて下さってはあるが、「あれはいましめの為に、かりにたとへての想像であらう」と笑い乍、繪のみを見るのが私の姿である。
その大問題について、奈良県郡山町願正寺様の御法話に、「死んだら火の消えた様なものだとか、人問死ねば無に帰
すとか、眞実らしく言ひますが、若し皆が死後平等な事であれば、現在の生活も共に皆同じでなければならぬ。
でなければ悪い事も仕放題で世の中が悪魔の世界になってしまふ。誰も早く病氣になりたい、苦しみたいと願っては居ないのに、二才や三才で死ぬ人もあり、七拾八拾才まで生きる人もあり、生れ乍にして病床に苦しみ、一生を空しく病の悩みに苦しみつつ暮らす人もあれば、毎日を遊び暮らして楽しそうな人もある。一人として同じ人が無いとの事実が、一人一人に過去があり未来があるとの証據である。現在の自分は過去世の結果であり未来への原因です。
未来を知りたければ、現在の自己を知るのが近道です。
夏生れて夏死ぬ蝉は、春も秋もあるんですが知らんだけです。私等にも、地獄もあれば極楽もありますが、唯知らぬだけの事です。自己究明、反省、内観、身調べの結果、現在の自分は、地獄行きの種を沢山造って居るか、極楽行きの種を沢山持あわして居るかを知る事に依って御自分の後生は極楽行きか地獄行きかが知れるんです。
ハハン成程と話を聞いて合点するのみでなく、たとへ拾日でも弐拾日でも、しんみり一人静かに、幼少の物心ついて
から今日までの過去を振り返り決算の棚卸しを実行して下さいませ。掌見るより確かに判明します」との有難い尊い御法話を聞いたことがある。
それを又実行さし導いて下さる懐かしい教團が宗教結社諦観庵會と言って布施市足代北二丁目十三番地にあって眞実の大法のせせらぎが流れて居る。
汝自身を知れ、先づ自らを知る、とは之、一切を知るにまされりと。言ふは易く、実行は難中の難。
反省の徹底に依り罪悪感、無常感が熾烈になり、三定死の境に到り、二河白道の旅人様の御跡を歩む人のみ往生要集を讀まなくても、自らの内心を見るだけではっきりはっきり存在の事実を体感されるのではなかろうか。
その地獄行きの自らを知る人だけが、極楽の実在をも体感出来る一歩前と思ふ。
火と水のそのなかみちを行けよ人
こいよ行けよのこえをたよりに
二、神佛の有無について
畏くも今上陛下、米英両國に對し宣戦の御詔の中に、皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ、と実に尊い有難い大御心と奉戴す。毎日毎日の生活にひしひしと神様の御蔭様を感謝報恩の心境までたどりつきたいものである。
自らを調べる事に依って、愚かな者、罪悪のかたまり、無力なものと知ることに依り、神佛存在の事実が体得されるのであらう。私の知人で眞宗の信者に、
「此の悪い恐しい浅間しい私は、今頃、地獄の底で苦しまねばならぬ筈の者が、今こうして楽に呼吸さして頂き、生きて居られる事までが御不思議様で御座居ます。
嬉しい有難い。」涙と共に疊にしがみつきひれふして歓喜の人があります。此の人の心の住家に到れば、御佛様の御蔭様で今日一日はと言へるであらう。
愚痴の法然、愚悪な親鸞と自らの愚を見られる目が佛を知られ見るのではなからうか。
食物、着類、水、空氣、身のまはりすべての物が命を捨てて愚かな私を生かし養ひ育てる為に恵まれて居ると実感のともなふ人こそ、神様佛様の御分身に抱
かれ包まれている事実を知る人であらう。
わがこころかゞみにかけて見るなれば
さぞや姿のみにくかるらん
こひしくは慕ふてこいよつなぎがや
みのりのいとをとほすひとすじ
内省、内観の徹底に依り懺悔がともなひ、こんな者が、こんな浅間しい人間がと知れる時、深く自分の愚を知れば知れる程、苦しまねばならぬ筈の自己が今こうして無事に達者で居られる事は、誰か身代りとなって苦しんで居て下さる御方がある筈だ、と体感出来る人こそ佛に遇ひ神に遇って居られるのであらう。
お寺には佛様が居られ神社には神様がまつられてあって御護り下さるのやそうなと人の事の様に感じ思って居る私には、私一人にかかり果てて泣て御苦しみ
の御方のある事実を知らんだけの事ではなからうか。
親の慈悲を知る子の稀なるが様に。
三、日本精神
日本精神とはこんな精神ですと口や筆には表はせない。言葉を代えて言へば、信心、佛心、良心、大和魂、忠心、孝心、その他いくらでもあるが、それは言ひかへたに過ぎない。身を以って顕現さす事は中々むつかしい精神だと思ふ。
反省、懺悔、感謝、報恩の人が、せめてせめての生活が歩一歩近づいて居るのではなからうか?
日常生活に我を立てて、おれが僕がといばりたい人は多く、御蔭様御蔭様有難う御座居ますと限りなく恵まれて居る大恩を感謝して暮らす人は少ない。
四、祈り
キリスト教の人はよく祈りを捧げると言はれるが、反省、懺悔の気持を言はれるのだらうと解したい。佛教では特に眞宗では祈ることを嫌ふ。
過去の悪業の結果と氣づかずに自業自得の苦を、祈って取り去らうとは虫がよすぎるのではなからうか。
悩みも病も皆自分の内に原因のあった事実を知り、その苦しみを縁として、邪見驕慢うぬぼれな自己の眞価を知る好機會を恵まれて居るのである。
苦悩は過去の悪業の知識となり、法悦の助縁となれば、祈りの必要はなくなる。
祈りの態度にも色々あって、自己の無力を知りひれふして頼む氣持ちは尊い光をはなつが、欲望の利用にのみ神様や佛様を使ひたくないと思ふ。
○○神社へ参れば福が預ける、○○教を信仰すれば病がなほると類がいかに多い事か。
英國皇帝、先般ドイツに空襲されて、もう此の上は神様にすがるより仕方がないと言はれたそうな。
かなはぬ時の神頼みでなく、日々夜々一息一息の生活が、神様の御蔭様で生かされて居る事実を感謝し報恩謝徳の生活でありたいと思ふ。
今今が無常であり、譲られて居るが故に。
菩提樹下の釋尊、夢殿の聖徳太子、面壁九年の大師に静思、反省、自照の姿が、祈りの總てではあるまいか。
五、眞の忠臣 眞の孝子
自他共に許した世の指導者様には講演に談話にラヂヲに有難い御高説を聞かして下さるのは嬉しいが、御自身の不忠を嘆じ廣大無辺な聖恩に報いて居
ない実生活を詫び、こんな事で相済まぬ勿体ない恐多いと慚愧、懺悔の末、せめてはと報國の念に燃えて居る人の稀なのは淋しい。
親様の御恩を偲べば、勿体なくて恐多くて、こんな事ではこんな姿ではと思ひ、何とかして孝養をつくしたいが、不孝者の私は御恩知らずで御座います。せ
めては、こんな事位さして頂かねばとの人に眞の孝子が居られるそうな。
指導者とは自分が思ひあがるのではなくて、人様が呼んで下さる敬稱であり、忠臣も自分で國士や志士の氣取りになるんではなくて、自からの不忠を嘆き、詫び、國家の前途を憂ふる人を、他人様が敬って呼ぶ言葉ではなからうか。
信心は、得たと言ふは得ぬなり。
地獄は一定住み家ぞかしと泣かれた聖人様が
阿弥陀佛の化身と仰がれる様に。
文はマツ毛の如し、見そこなふては往生の得分を失ふ。
マツ毛は目の最も近くにあって見えない。
六、法律 罪悪 宗教
「信仰は善い事だとは思ふが闇をせねば生きられず、植物動物等の命を取らねば生きられぬからどうもね。」
と相当な御方からでも聞かされるが、足利浄圓先生に問ふと、「生きて居るエビを料理して目玉や足をピクつかして居るまま御馳走に出すと、一人の人は『おいしそうですな。凡夫ですな私も。』とぼりぼりたべると、一人は『これはどうも氣持が悪くて喰はれん。殺生は大嫌ひですからね。』
と言ふが、二人ともどうかと思ふ。
親鷲聖人の歩まれた道は、『生き物の命を取らねば生きて行かれない己が罪業の深重を知り、總てに謝り御詫びして、大切な命を捧げ、此の愚か者を養って下さる。』と繊悔、感謝の御生活と拝察します。」との御話であった。
此の世の僅かな法律でさへ守りつくせない罪業深重の愚か者と、慾望の邪念を抱きかかへて法悦の種にする人は
少い。
法律も罪悪も、宗教、信仰への助縁ではあるまいか。
おほいなる御手に抱かれてあるとも知らず
今日も又反逆の業にすすりなく
憂きことに遇ふて稱ふる六字こそ
ひとりながさぬなみだなりけり
合掌
七、生死
前滅後生、前滅後生と、今の一息一息が、過去未来であり、死んで生きて死んで生きてをくり返して居
るので頭の毛や爪等は、死体である。昨日の私は既に死んで、今日は生れ、一息一息が生きているのであり死んでいるのだ、と話だけは合点も行くらしいが、あの本當の死に直面して從容と死んで行けるだらうか。
夜静かに自分の胸に手をあててしんみり深く深く想像する時、未だ遠しと氣づかされる。
酒の力をかりてとか、人の勢で無茶になってとあれば別だが、眞剣、生死一如の心境へ到達となるとどうか?
一生不断の修行として、にっこり笑って死んで行ける精進には、あの道を通れば早い。
戦国の昔、中国の毛利家は戰の先鋒に眞宗信者を立てたそうな。石山城の十一年間も成程とうな
づかれる。
それは、死なば阿弥陀様に救はれるからと言ふ信心でなくて、内省、自照、懺悔、感謝、報恩の念が、白熱、燃焼、信人行煙の表れだったと思ふ。
古今未曽有の大國難に對處する日本國民等しくたどりつこうではないか、生死一如の心境へ。
あめあられ飛びくる彈丸は西方の
弥陀の浄土のつかひなりけり
人生の目的
何の目的で生れて来たか。何の目的で生きて居るか。
書家は何の為に字を書き、僧侶は何の目的で讀経法話をして居るか。
何の目的で生きて居るか。大切な目的を忘れ、手段、方法にのみを目的と間違へて居りはしない
だろうか。生きる為だけでは虫でも生きて居る。
人生の目的は何々と教へて頂くのみでなく、答へすます話でなくて、自問自答、何する為にか明答得るまで自からに問ひ、思案を廻らすべき大事な大切な事と思ふ。
道行く人も、何處へ何しに行くと、何等かの目的があって歩いて居る様に。
歩く事が目的の總てではない様に。
御法要(三年 七年)
信火行煙の眞実味なく、義理つとめ形式的な名門利養で、「今年は何月何日に又先祖様の三十三年で又たかんならんね」と習慣上、親類を呼ばねばならず、「眞宗は面倒な」と當日は客の接待に忙しく、闇をしてまで御馳走並らべにつかれ果てて、大切な讀経勤行は僧侶の仕事と委せきりで、多忙な形式に流れたいのが私の姿であらう。
御文章十二を讀まして頂くと「在家無智の身を以ていたづらにくらし、いたづらにあかして、一期は空しくすぎて、つゐに三途にしづまん身が、一月に一度なりとも、せめて念佛修行の人数ばかり道場にあつまって、我が信心はひとの信心はいかがあるらんと、信心沙汰をすべき用の會合なるを、ちかごろはその信心といふ事はかつて是非の沙汰におよばざるあひだ言語道断あさましき次第なり」と。
せめて御先祖様の御恩を偲び奉つる法命日に佛祖よりの御手紙を代讀して頂いて居るんだから
日頃の不法解怠を悔ひ改めよと。
一息一息が何處へ近づいて居るかと
合掌
意識と体感
飯の味は水の味はと聞かして項き教へて項きハハン成程と合点した事と、実際に口に入れて身に浴びて感ずる事とは、中々のへだたりがある。
此の体験なくして信じた積りを杖にして讀経に聴聞にとらはれて信者顔の人は多い。
歎異抄の一節を助け舟に、知ってしまひ解ってしまひの人は多く、二河白道の旅人たる人は少い。
もろもろの雑行雑修自力の心を振り捨てて、とあるが振り捨てた覚えがあるか。今、どうですか。
我等が今度の一大事の後生御たすけ候へとたのみ申して候、とたのみましたか。今、たのんで居りますか。
体験、体感と書いて居る私自身、思ひだけがさきはしって佛縁未だしと嘆じつつ。合掌
又、末代無智の御文章様に、さらに餘のかたへ心をふらず一心一向になってとあるが、一心一向になって居るであらうか。行くも死せん、退くも死、止まるも
死と、無常感と罪悪感で三定死の心境を体感して居る人でなければ、一心一向とはなれぬであらう。
こうしてペンを走らして居る様な姿では、二河白道の旅人とはかけはなれた高慢な姿であらう。
有我と無我
褒められたい。富、知識、権力、私の自慢したい事の殆んどが、嫉妬と嘲笑を買ふのみと知り乍、みせびら
かしたい。馬鹿げた心と思ひつつも、くり返すのが悲しいと思ふ。
忠臣、聖人と敬はれたい人が多くて、福井丸の石になり満足して沈める人は少い。
時局、日本はかかる人を求め、臣民の皆がかくありたいと思ふ。
浅間しい見れば見る程恐しい自からの内心を省る目のある人には、せめてせめてもの恩の人には、求めざれども
眞実の尊い香りがたなびくのではあるまいか。
勿体ない有難いの人こそ無我の心境に進みつつある人かもしれない。
南無阿弥陀六字の外はなかりけり
おやこ あひあふ 道はこのみち
とりべのヽきのふもけふも立つけむり
ながめて通る人はいつまで
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